「アイヌ女がシャモ男を寄せつけて、色目をつかうようになった日から、アイヌの滅亡は始まったわけですわ。どんな人種だって、女たちの美の標準が大切なんですよ。女たちがもしも、ウタリ以外の異人の男に美の標準を置くようになったら、それでおしまいなんだよ」
「『刺青!』と雪子は身ぶるいした。とがらせた石や貝殻の破片、骨や金属の針で傷をつけられ、藍色の染料をしみこまされる痛みも、想像された。だが、彼女を身ぶるいさせたのは、そのことではなかった。また、女を盗られないようにするため、女の意思におかまいなしに、女の顔に自分たちの徽章をつける、部落の男たちのエゴイズムが、おそろしいからでもなかった。唇のまわりを青い刺青で縁どられてしまったら、その日から、まるで別の女になる。もはや彼女を愛してくれるのは、刺青の女を美しいと感じる男たちだけだ。そう決められてしまうことが、何より恐ろしいにちがいない。」
(「森と湖のまつり」武田泰淳)

「男と女はなーんも、一緒に寝なけりゃいけんというもんでねぇ。仲よぐ、兄妹のようにしていてもええだ、躰の関係さもてば、一時は楽しいが、肉と肉がさわいで、よろこぶだけのことだ。心は空しい。おりんちゃん、おめは、おらの妹だべ。」
 (はなれ瞽女のおりん、うれし泣きする)

僕は「文化」という話題でお茶を濁す。

失われていく日本の文化を守ろうと、たいへんなことをあなたは言う。だがあなたに見えている文化とは、その皮相な表面だけではないのか。
前近代的な苦しさなど存在しなくても、瞽女の文化はしっかりと残せるらしい。教養主義的に御座敷芸を批評していると文化人になれる。例えば長屋というものは、長屋然とノスタルジックに装飾されていなければならないらしい。昔の長屋の心は、むしろ安い公団住宅の方にあるのかもしれないのだが。
最後の瞽女唄の継承者に瞽女の心がある。なるほど、へその中で茶が煮え立っている。

失礼つかまつった。要するに茶化しているのだ。皮相な表面をなぞっているのはこの僕の方なのである。なにしろかく言うこの僕は、かつて“芦晃”などという大層な名を大先生から頂戴したりした事があるのだし、それについて、末は間違いなく文化勲章だ、なにしろ後継者が少ないのだから、などという言葉を、黙って聞いていた事もあるくらいなのだから、つまり僕こそがでまかせを語っているのである。

水上勉を、たんなるきっかけにして言葉の遊びを転がしているに過ぎない。だから、決して真意を勘繰ってはならない。

「お堂の仏さまより美しいぞえ」
「おらどが、仏さんだなんて……兄さま、おら、兄さまの妹だ、妹だ」
(と、おりんは泣く、妹であることが悲しいといって泣くのである。)