R.D.レインはいう。日常的な精神は、身体と意識の平和な共存を信じている。しかし、真実を見透かす分裂病者は、身体と意識の馴れ合いに安住できず、結果、正常な「身体化」は失われ、そのかわりに「非身体化-自己と身体の分離」が訪れるのだと。
分裂病者は、見慣れぬ自分の身体に、「にせの自己」を注入する。彼らの生は、自己が崩壊する恐怖と不安の中でおこなわれる壮絶な演技である。

「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないという。いったいそれは、どういう意味なのか。

分裂病者は、必死に自己の存在を確かめようとしているのだ。だが僕は、僕の肉体が確実にこの世界に存在していることを認識しているのである。僕にとって、身体と自己を分離させてみる実験は、帰宅時間が来ればそそくさと切り上げることのできる、夕暮れ前のママごとに過ぎない。僕の犯す「真正ならざる罪」は僕の精神の責任ではないと、舞台の上でいくら叫んでみても、僕の精神がコントロールしている僕の身体がこの世界の中にあって「真正ならざる罪」を犯し続けているという責任から、僕の精神は決して逃れることが出来ないのである。

分裂病者は、自己の存在を確かめるために、「罪」であることを知りながら、「真正ならざる罪」を切実に求めているのだが、一方で僕は、「分裂病者」などではなく、「分裂病者」になることも望んでいないのである。
つまり、「真正な罪」を犯さぬためには「真正ならざる罪」を重ねなければならないというロジックは、巷に溢れる「スキゾル」などという流行の造語のような安易さにまみれているのではないか。

僕らは「真正ならざる罪」の意識さえ、真に所有してはいないのである。

役者などという「あり方」に甘えて、分裂病者を装うことを、決して選択してはならないのだと思う。
こんな中途半端な状態では、レインのいう「真正な罪」という概念を断固拒否すべきなのだ。実存主義者のスローガンを、安易に掲げることもやめよう。
そして、あくまでも狂気ではない「分裂者」の道を探るのだ。「役者」などという不誠実な人種から、程遠い場所で、僕は何かを探すのだ。

矛盾している。そんなことはわかっている。だが、思い起こせ。僕は、芝居という武器を持って、この地平のかなたの悪に対して、絶望的な戦いを挑んだのではなかったか。それを目指したのではなかったか。町へ出ろ! そのためにまず、この肉体を自分のものとすることに同意するのだ。その為にこそ、小さな罪を犯すことを、犯し続けることを受け入れなければならないのだ。

グロフスキは、どこへ行ってしまったのか、僕はレインに、自分の欺瞞を暴かれ、自己を空にするというような目論見が、どうやら極めて怪しいことのように思われ、だから僕は、ひとまずグロトフスキについては棚上げすることに決めたのだ…

決めた? 驚いたもんだ。この僕に、まだ「決める」能力が残されていたとは驚きである。