この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった。
「何一つ特筆すべきことが無い」という表現を思いついて、僕は安心している。
問題は、何があったなかったということではなく、特筆すべきことがあったかなかったかでもなく、日記を埋める題材があったのかなかったのかということでもなく、ただ日記の空欄に何らかの意味ある文字を書き残し得たのかどうか、それのみが問題なのである、というふうに、どうやら僕は考えているらしい。いったい、どんな強迫観念が僕に影響しているのだろうか。

何をしたとか、どこへ行ったとか、海がきれいだったとか、そうしたことを書けないのは、なんともつまらないと思っていたのだ。だが、考えればこの言い草も妙だ。どこへも行かず、きれいな海も見ることなく、要するに何もしなかったことがつまらないというなら分かるが、そうしたことを書けないことがつまらないとはどういうことだろう。

ともかく僕は、宿の和室の机の上に、このノートを開いたまま、しばらく仰向けに寝転がって天井を眺めていたわけなのだが、「この一週間、何一つ特筆すべきことは無かった」という言葉を思いついて、やおら起き上がってノートにその文字を書きつけてみた。そうしてみたら、なんだか僕は、とても満足しているらしいのである。

はたして、何をしたとかどこへ行ったとか、そういう具体的な事柄で毎日の日記を埋めていける人とは、どういう種類の人間なのだろうか。
人は言葉によって考えているのだろうから、考えたことを書けばいいというだけのことならば、少し乱暴だが、自動書記的にも行い得るはずだ。頭の中にある言葉に、ただ文字を与えて書き記すだけのことなのだから。しかし、何かをしたとかどこどこへ行ったという事実を、「何をした」「どこへ行った」という言葉に置き換える作業は、何か別個の衝動がなければできないことのように思うのだ。

どうやら僕にとって、一日の終わりにその日の出来事を記すことなどはどうでもよくて、「特筆すべきこと無し」でもなんでもよいから、何かまず書いてみて、その言葉から始まる想念だけが重要なのである。きっと僕の日記は、一日の結果なのではなく、何かの原因となる因子なのだ。
それならば、一日の終わりに書くのではなく、朝一番に書くほうがいい。しかしそんなことをしたら、きっと僕は、一日中このノートに向かっていることになりそうだ。

結局のところ、未だ僕は、現実の自分は虚ろであり、書く自分は現実と断裂している。