08/11/17 : 《1987年1月21日のノート②》
カテゴリ: 《過去のノート》
魯迅が本当の〈高士〉というものについて書いている。
その高士は靴すら履けないほど貧乏だった。それを伝え聞いてわざわざ靴を届けに訪れてくれた人に対し、彼は黙って裸足の足を差し出した。本当の高士とはそういうものだと。
してみると「たまには貧乏もいい」などとのたまう種田山頭火なる最近はやりの俳人は、魯迅言うところの本当の高士とは似て非なるものらしい。「梅花一枝を裏の畑から盗んで来て瓶に挿した、多過ぎるほど花がついている、これで仏間の春がととのうた」とは山頭火。一方の本当の高士が、はたして盗みをはたらくか否かは別として、たとえ盗んできたとしても、けっして「盗んだ」とは言いそうもない。否、盗んだという自覚すらないのだろう。やはり似て非である。
山頭火のほうは日本的で甘いのである。「水と空気とがタダだからありがたい」、ここまでくると不快である。日本特有の御利益宗教、それには自然に感謝する深い祈りが欠けている、そう言葉にするとなんとも薄っぺらだけれど、少なくとも〈タダ〉というのはどうもいただけない。水と空気がありがたいとしても、それは〈タダ〉だからではあるまい。
いずれにしろ、中途半端な優しさなど、糞食らえである。
その高士は靴すら履けないほど貧乏だった。それを伝え聞いてわざわざ靴を届けに訪れてくれた人に対し、彼は黙って裸足の足を差し出した。本当の高士とはそういうものだと。
してみると「たまには貧乏もいい」などとのたまう種田山頭火なる最近はやりの俳人は、魯迅言うところの本当の高士とは似て非なるものらしい。「梅花一枝を裏の畑から盗んで来て瓶に挿した、多過ぎるほど花がついている、これで仏間の春がととのうた」とは山頭火。一方の本当の高士が、はたして盗みをはたらくか否かは別として、たとえ盗んできたとしても、けっして「盗んだ」とは言いそうもない。否、盗んだという自覚すらないのだろう。やはり似て非である。
山頭火のほうは日本的で甘いのである。「水と空気とがタダだからありがたい」、ここまでくると不快である。日本特有の御利益宗教、それには自然に感謝する深い祈りが欠けている、そう言葉にするとなんとも薄っぺらだけれど、少なくとも〈タダ〉というのはどうもいただけない。水と空気がありがたいとしても、それは〈タダ〉だからではあるまい。
いずれにしろ、中途半端な優しさなど、糞食らえである。