夢を見た。
少女が居た。少女には一人の弟があった。父親は小柄だががっしりした体格だった。母親は「母」という相貌と「母」という性格を持っていた。祖母はきっと少女を愛していた。五人の家族は、公園のある遠い街へ移り住むために、一台の小さな車に体を寄せ合うようにして乗っていた。
運転している父親が、ハンドルを握ったまま肩越しに子供たちに告げる。
「もしお前たちが、あの公園を気に入らなければ、すぐにも住み慣れた街へ戻ろう」
少女は思った。
(だったら、気に入らないと言ってしまおう。そうすれば全部終われるんだから……)
それはとっても簡単なことに思えた。

しかして、遠い街のその公園は、少女にとって全く気にいるものではなかった。
(素敵な公園だったら良かったのに、そうしたら「気に入らない」と、あっさり言えたのに……。)
少女は、〈けしの花〉の咲き乱れるその公園を、必死に気に入ろうとした。

夢の中の少女は、僕の意志のようだったが、僕は確かに傍観していたのだ。

朝方、また別の夢を見た。
その薄暗い山荘は沢山の人間で混雑していた。僕は誰かを探していた。あの少女が必死に公園を気に入ろうとしていたように、僕は誰かを必死に探していたのだ。だが、探している人の顔を、僕はどうしても思い浮かべる事が出来なかった。
人々は僕に全く無関心のようだった。そして、それは一種の平安だった。

ガルシンの、「赤い花」の、「罌粟(けし)」の花の、その象徴の、意味・・・

「これまでは推理や憶測の長い道程を経て到達したことを、今では直覚的に認識する。哲学が作り上げたものを、僕は現実的に把握したのです。」
夢もまた現実か。心理学は「現実」を扱うのか。しかし……。

大江健三郎の「鳥」。
「睡気は現実の一部ということだ、《現実》は鳥たちのように柔らかくせんさいな感情をもっていない。かれのごく微細な合図だけでたちまち消えさって行く《鳥たち》にくらべて、《現実》は決して従順でなく頑固にかれの部屋の外側に立ちふさがっていて、かれの合図をはねつける。《現実》はすべて他人の匂いを根強くこびりつかせているのだ」
「おれはこのやりきれない生活を少しの幻影もなしにくらしていくことになるのだろう、しかも気違い女にまといつかれながらだ、ああなんというやりきれない生活だろう」

「毎日ただこの感触を感触として生きていたら
 ずいぶん楽しいことなんだが」
そうだそうだと、僕は賢治を読んでいたんだ。
「潮汐や風
 あらゆる自然の力を用いつくすことから一歩進んで
 諸君はあらたな自然を形成するのにつとめなければならぬ」
精神を肉体に還元する可能性について、なるほどこういう言い方もあるのかと、そうかそうかと、僕は賢治を読んでいたんだ。
夕方、開け放った窓から、涼しい風がやってきた。
「諸君はいまこのさっそうたる
 諸君の未来圏から吹いてくる
 透明な清潔な風を感じないのか」
そうして、僕は感動していたんだ。感動しながら「密室の美学から開放された詩人」賢治を、僕は読んでいたんだ。だが、密室に閉じこもった詩人なんているんだろうかと、僕は「密室の美学」を始めてしまったんだ……

(宮沢賢治に大地と農業があったように、例えば晩年のバイロンにはギリシア独立戦争があったのだ。多くの詩人たちが恋の詩を残したのは、彼らが恋をしたからなのだ)…

やがて夜が更けてくると、僕はますますつまらない言葉で考え始めていたんだ。
(愛し合い、理解し合い、尊敬し合うという単純なこと……)
つまり、これが〈肉体を持たない言葉〉という奴なのだ。そうは判っていても、僕は夜の密室にすっかり閉じこもっちまったんだ。
(傍観者とは勇気ない人の意ではなく真の善の体現者ではないのか)
というふうに。