営業努力しなくても親会社が仕事をくれる、いいですね、と言われる。営業努力をしなかったわけではない、10年の積み重ねだと、胸を張って見せたいところだが、状況はそんなに甘くはない。3年ほど前から、このままではいずれ仕事はなくなるだろうと、みんなに伝えてきたのだが、はたして、どのように伝わっていたのか。
「無理して仕事をとってこなくてもいい」
そういってくれるものはひとりもいなかった。そのことを、何故僕は冷徹に見ようとしなかったのか。
「そうなったらそうなったで、新しい仕事を見つけるさ」
彼らの顔には、そう書いてあったではないか。何故僕は、その時僕自身の人生を考え直すことをしなかったのだろうか。

個人事業を会社にしたのも、少しでも仕事をもらえる環境を作るためであった。親会社の担当者から、会社にしろとせっつかれていた。
「会社じゃないと、仕事を出せない、そういう方向に動いている。」
悩んだが、親会社から仕事を貰うためには致し方ないと、法人にした。みんなのためだと思っていた。だが、ほんとうにそうだったのか、「みんな」とはいったい誰のことだったのか、「みんな」が、ひとりひとりの顔と結びついていたのか。

生まれた会社は、別の人格を持つモンスターであった。気をつけて世話をしないと、途端に牙を剥き、檻を蹴破って飼い主たちを食い殺すことになるだろう。いつまでも、親会社から「餌」が供給されるという保障はどこにもなかった。自らの会社で創造したものを「商品」として持たなければ、会社はいずれ死ぬ。そのまえに、我々が殺される。

だから、CDを作ってみた。その頃は、まだのんびりとしたものであった。しかし、今年の初め、いよいよ「会社の死」が、現実味を帯びてきた。我々に作り出せるものが、もっと他にないのか、その答えを出すことが、切迫した課題となった。「もの」そのものを作れといっているわけではない、どこかに持ち込める企画でもいい、そう、社員に促した。半年が勝負だ、その間、赤字1千万までは覚悟している、そこまでなら何とかなる。半年後に結果を出せなどとは言わない。それは不可能であろう。その時点で少しでも可能性のある新しい企画が動いていれば、何とかして会社を潰さずに続けていく、そう宣言した。その決意は、伝わっていたのかいなかったのか。

半年が過ぎた。

結局、社員から、新しいアイデアは出てこなかった。ならばと、今までの本業である地図を生かした仕事の可能性を探るための営業を指示してみた。だが、それもダメであった。動けなかったのか、動かなかったのか。
親会社から、最悪の予想に反してイレギュラの仕事がいくつか入ってきた。社員はそれを今までのようにこなしてくれた。いや今まで以上にこなしてくれた。「くれた」? その言葉に違和感を持つのは、僕だけなのか。
それだけでは「死ぬ」と、何度も伝えたはずなのだが、それだけをこなすのがやっとだった。だが、本当に「やっと」だったのか。危機感を自分のこととして、勝負した者がいたのか、いなかったのか。

ひとつの「死」が、確実に、間近に迫っている。

一方で、僕に出来ることはだけは、何とか動かしてきた。たとえばCDの販売促進、新しいクラシックのイベント、そして沖縄にまつわること。会社を殺すわけにはいかなかった。だが会社が死んで本当に困るのは、いったい誰なのか。
会社が死ぬと見切った者は、沈没する前に船を下りるだろう。そして、会社と共に死ぬのは、マストに括られて逃れられない僕だけなのではないか。ならば、会社にまつわる全てが、結局僕自身のためだけにあったのだといえないか。

たくさんの疑問がある。だが、今となっては、それにひとつひとつ答えている時間などない。それらの疑問を全て飛び越して、先に進むことができるかどうかは、ただ次の一点にかかっていると思うのだ。

「芝居」や、「音楽」や、「沖縄」や、「商品」や、「ネットワーク」や、そしてそれらを関連付けて考えてみることから生まれる可能性、それを自らの切実な課題として考えてみることのできる人たちと出会えるかどうか。
そして、彼らはどこにいるのか、例えば、社員の中にいるのかどうか。

勿論、それで全てが解決するとは思わない。しかし、どうやら「社長」の才能が欠如しているらしいこの僕が、なんとか苛立たずに仕事を続けていける唯一の道は、そこにしかないように思えるのである。

「他力本願」ではある。
だが、何ものかに回帰しようとしている自分を、今、発見してもいる。

問題は、どこまで回帰するかだ。