書斎に娘が訪れた。
ドストエフスキーを読みたいから本を貸して欲しいという。本棚の、ドストエフスキーが並んでいる場所を教えて、どれでも好きなものを持っていけと言ったら、「どれがお勧め?」ときた。

ここから先は、父と娘の秘密。

ドストエフスキーについて語り合えるような人間が周りにいるかと問われれば、残念ながら殆どいないとしか答えられない。たまにそんな希少な方に出会えたとして、ドストエフスキーについて語り合う夜などを共に過ごすことができれば、なかなかそれは楽しいものだが、しかしそういう場合は、どうやら相手がドストエフスキーなどというものを読む気になった人であるという、いわば無意識の連帯感のようなものが、奔放に語り合える状況を準備していてくれるのだと思う。
ならばまず語り合うべきことは、なんでドストエフスキーなどというものを読む気になったのかということなのだが、こいつは誰でもそう簡単に説明できるような話ではない。
「父に勧められたから」
たとえば、それはそうかもしれないが、父がいくら勧めたって、それに従う子どもなんか滅多にいないわけで、父親が100個勧めて、そのうち99個を無視しておいて、たったひとつ「ドストエフスキーを読んでみたらいい」という勧めだけに従ったからといって、「父に勧められたから」じゃあ納得などできるわけがない。ドストエフスキーを読む気になった理由は、きっともっと前にある、説明しがたい、秘密にしておきたい「何か」なのだ。

ドストエフスキーを読んで何を思うか、それはドストエフスキーを読み始める前に、6~7割方は決まってしまっているのではないかということ。凡人は、あらかじめ考えていた範囲でしか感じることができないのである。

それは芝居でも音楽でも同じこと。貴重な時間を費やして、わざわざ電車賃を払って劇場やホールまで足を運んでいただく、いかにそこまで持っていくか、その持っていきかたが、実は鑑賞後の評価の6~7割を左右するのだ。
たくさん切符を売るという仕事だけではなく、評価の6~7割を、事前に確定してしまうために、プロデューサーと営業は奔走している……

というようなところへこの話をもっていってしまったら、途端に興味が失せた。

娘は、「前期短編集」という文庫本を持っていった。全部読む気なら、書かれた順番に読んでいくのもありではないかという親父のアドバイスに従ったらしい。はたして娘は、「カラマーゾフの兄弟」くらいまで、たどりつくのかどうか、娘の6~7割がわからないので、今のところは何ともいえない……