8月21日金曜日: 全て冗談なのです
カテゴリ: 更新された情報
昨日のことを、あさってあたり、あの人に聞いたはなし。
指をつめたのは二回くらいじゃないのかな。ふつうは左手だけどね、それじゃあ三線が弾けなくなるから、だから右手にしてもらった。
島にいるのが危うくなって、川崎あたりに身を隠したらしい。琉球人お断りみたいな張り紙が、あちこちの飲み屋に貼られていたころなのかもしれない。とんでもないはなしだということになっているけど、貼ったオヤジの気持ちもわからんじゃない。
花街で憶えた本物の三線。今では100人を越える弟子がいる。教育委員会から表彰されたというのだから、世の中わからないもんだ。わかってないのは役人か、きっとそうにちがいない。
インターネットでいくら調べたって出てきやしないさ。新聞はとっくにダメだが、ネットでならどんな情報でも得られるなんて勘違いするのもとんでもない話。
島の女は、ちょっとやそっとじゃ驚かない。顔も名前も知らない兄弟がいるなんて、普通のことだよね、ママ。あの知事だって、似たり寄ったり。
裏があるんですねだって? 何を目ん玉まん丸にしてるのさ。君の大好きなおかあさんは、きっと君に、ちゃんと正しいことだけを教えてきたんだね。とうさんは役人? 冗談さ、冗談。
あの人って、ママじゃないよ。全然違う人。違う人の冗談。
すべて、冗談さ。
指をつめたのは二回くらいじゃないのかな。ふつうは左手だけどね、それじゃあ三線が弾けなくなるから、だから右手にしてもらった。
島にいるのが危うくなって、川崎あたりに身を隠したらしい。琉球人お断りみたいな張り紙が、あちこちの飲み屋に貼られていたころなのかもしれない。とんでもないはなしだということになっているけど、貼ったオヤジの気持ちもわからんじゃない。
花街で憶えた本物の三線。今では100人を越える弟子がいる。教育委員会から表彰されたというのだから、世の中わからないもんだ。わかってないのは役人か、きっとそうにちがいない。
インターネットでいくら調べたって出てきやしないさ。新聞はとっくにダメだが、ネットでならどんな情報でも得られるなんて勘違いするのもとんでもない話。
島の女は、ちょっとやそっとじゃ驚かない。顔も名前も知らない兄弟がいるなんて、普通のことだよね、ママ。あの知事だって、似たり寄ったり。
裏があるんですねだって? 何を目ん玉まん丸にしてるのさ。君の大好きなおかあさんは、きっと君に、ちゃんと正しいことだけを教えてきたんだね。とうさんは役人? 冗談さ、冗談。
あの人って、ママじゃないよ。全然違う人。違う人の冗談。
すべて、冗談さ。
8月18日火曜日: 生物多様性と自然淘汰
カテゴリ: 更新された情報
生物多様性なることばを、最近よく聞く。だが、決して新しい話ではない。
岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。
最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。
だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。
種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。
実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。
受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。
人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。
自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。
岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。
最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。
だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。
種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。
実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。
受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。
人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。
自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。
8月 8日土曜日: 本質を見る無垢な目
カテゴリ: 書斎で書くこと
ある写真家の技量がどれほどなのか、写真家がこの現代において生み出す作品が価値あるものなのかどうか、門外漢にとやかく言えることは何もない。だが、作品の伝えるものが、被写体よりもむしろ作者自身であるとするなら、どれほど優れた批評家が発した論評でも、それが正しく被写体を捉えていないという批判であるなら、それは僕にとって、つまらぬ言いがかりに聞こえるのみだ。
しかし、被写体が極めて現代的な問題を抱えている場合、写真というものが文字通りあたかも真実を伝えているかのような錯覚を与えるが故にこそ、当事者たちは写真の嘘を糾弾する。
美しい海を撮る。その写真の端に、汚い生ゴミが写った。それを切り取るかどうか。
およそ稚拙な設問だが、僕はそれを、意識的なトリミングの作業を思い浮かべて問うているわけではない。
ある無垢な写真家が、ただただ美しいと感じた自らの心を素直に表現したいと、写りこんだゴミを何の躊躇もなく切り取った。写真家には、はじめからゴミなど見えていなかった。なぜならこの写真家にとって、生ゴミの山は、この海の本質的な美しさとは無関係な存在であったからだ。写真家に嘘はない。むしろピュアな目を持っていただけだ。こうして仕上がった写真は、この海の本質である「この上ない美しさ」を伝える稀有な作品となった。
だが……。
「お前の写真は、あの海の現実の姿を捉えてはいない」
「私は、私の大好きな海を、ただ見つめていただけなのです」
この海に癒されるという若者たちがいる。
もっとこの海の歴史を学べと男が言う。そして、海に癒されるお前たちが嫌いだと、平然と言い放つ。
「生ゴミを捨てたのは、この海で仕事をするあなたの父親ではないですか」
男はそれに対して、憎しみを込めてこう答えた。
「親父がゴミを捨てたのは、お前たちの所為だ」
「私たちと、あなたの違いは、いったい何なのですか」
「歴史を学べ」
僕は、男に対する嫌悪感がこれ以上膨れていくのを恐れて、「好きなものは見つめることしかできないという良心」の側に寄り添っていくのである。何かが、取り返しがつかないほどに萎えていくのを感じながら。
しかし、被写体が極めて現代的な問題を抱えている場合、写真というものが文字通りあたかも真実を伝えているかのような錯覚を与えるが故にこそ、当事者たちは写真の嘘を糾弾する。
美しい海を撮る。その写真の端に、汚い生ゴミが写った。それを切り取るかどうか。
およそ稚拙な設問だが、僕はそれを、意識的なトリミングの作業を思い浮かべて問うているわけではない。
ある無垢な写真家が、ただただ美しいと感じた自らの心を素直に表現したいと、写りこんだゴミを何の躊躇もなく切り取った。写真家には、はじめからゴミなど見えていなかった。なぜならこの写真家にとって、生ゴミの山は、この海の本質的な美しさとは無関係な存在であったからだ。写真家に嘘はない。むしろピュアな目を持っていただけだ。こうして仕上がった写真は、この海の本質である「この上ない美しさ」を伝える稀有な作品となった。
だが……。
「お前の写真は、あの海の現実の姿を捉えてはいない」
「私は、私の大好きな海を、ただ見つめていただけなのです」
この海に癒されるという若者たちがいる。
もっとこの海の歴史を学べと男が言う。そして、海に癒されるお前たちが嫌いだと、平然と言い放つ。
「生ゴミを捨てたのは、この海で仕事をするあなたの父親ではないですか」
男はそれに対して、憎しみを込めてこう答えた。
「親父がゴミを捨てたのは、お前たちの所為だ」
「私たちと、あなたの違いは、いったい何なのですか」
「歴史を学べ」
僕は、男に対する嫌悪感がこれ以上膨れていくのを恐れて、「好きなものは見つめることしかできないという良心」の側に寄り添っていくのである。何かが、取り返しがつかないほどに萎えていくのを感じながら。
8月 2日日曜日: 本当に書きたかったこと
カテゴリ: 沖縄の、こと
本当に書きたかったことは別にある。会社の看板を背負わされた告知板に、オキナワのBURAKUのことを書くなど、できることではない。
ならば最後まで書かなければいい。“社長とは呼ばないで”などという卑怯な逃げ道を作って、敢えて一年も遅らせてそれを世界に向けて発信するようなゴマカシを、「関係各位」はどう思うか。
気にしてはいない。それよりも何よりも、先が見えてきた自分の人生の隙間を、きちんと埋めておきたいと思うのみである。それによって笑顔だった何人もの知人が、しかめ面して僕から去っていくことになるのだとしても、まったくかまわないと覚悟している。そして、去った人間は、その程度のものだったのだと、僕は傲慢に言い放つだろう。
「人類館事件」を正しく理解する?
そういうお前は、きっと何も理解していない。そんなちっぽけなことはどうでもいいのだ。本当に言いたいことに較べれば、「人類館事件」の別の側面など、あったとしても塵芥である。
本当のことを聞かされても、お前たちはなお、民族のアイデンティティなどという魔物を振りかざして、永遠の憎しみの種を蒔こうとするのか。お前たちは、お前たちが最も憎む敵と、同じ罪を抱えた腹違いの兄弟なのである。お前たちが読んでいる歴史書に何が書かれているのだとしても。
勘違いしてはいけない。僕は憎しみの話をしてはいない。ただ、子を失った母の感情が唯一絶対であるなどとは、決して言いたくないのである。
ただの県民の利害の違い、誰にも転居の自由がある、そう主張する能天気な者達のほうに、はるかに親近感を覚えるのだが、そういう彼らが日の丸を打ち振るう熱狂を目の当たりにすると、人間とはかくも絶望的な生命体なのだと頭を垂れる。
お前たちには、この僕を殺す権利がある。そして、人間とは、絶望の異名であって、殺された僕の屍を閉じ込めた檻を、僕は新人類館と呼ぶのである。
ならば最後まで書かなければいい。“社長とは呼ばないで”などという卑怯な逃げ道を作って、敢えて一年も遅らせてそれを世界に向けて発信するようなゴマカシを、「関係各位」はどう思うか。
気にしてはいない。それよりも何よりも、先が見えてきた自分の人生の隙間を、きちんと埋めておきたいと思うのみである。それによって笑顔だった何人もの知人が、しかめ面して僕から去っていくことになるのだとしても、まったくかまわないと覚悟している。そして、去った人間は、その程度のものだったのだと、僕は傲慢に言い放つだろう。
「人類館事件」を正しく理解する?
そういうお前は、きっと何も理解していない。そんなちっぽけなことはどうでもいいのだ。本当に言いたいことに較べれば、「人類館事件」の別の側面など、あったとしても塵芥である。
本当のことを聞かされても、お前たちはなお、民族のアイデンティティなどという魔物を振りかざして、永遠の憎しみの種を蒔こうとするのか。お前たちは、お前たちが最も憎む敵と、同じ罪を抱えた腹違いの兄弟なのである。お前たちが読んでいる歴史書に何が書かれているのだとしても。
勘違いしてはいけない。僕は憎しみの話をしてはいない。ただ、子を失った母の感情が唯一絶対であるなどとは、決して言いたくないのである。
ただの県民の利害の違い、誰にも転居の自由がある、そう主張する能天気な者達のほうに、はるかに親近感を覚えるのだが、そういう彼らが日の丸を打ち振るう熱狂を目の当たりにすると、人間とはかくも絶望的な生命体なのだと頭を垂れる。
お前たちには、この僕を殺す権利がある。そして、人間とは、絶望の異名であって、殺された僕の屍を閉じ込めた檻を、僕は新人類館と呼ぶのである。
7月23日木曜日: 誰も読まない呟きだから
カテゴリ: 書斎で書くこと
ボクは専門家ではない。だから、たくさんの専門家の論を聞いて確かめる。そんなことが出来る年齢になった。
それとは違うはなし。
例えばNさんという表現者がいるとする。信頼するSさんという方が、Nさんのやっていることは間違っているという。なるほどと思えるご高論である。だが、それだけをもってボクはN氏個人を批判することはしない。あたりまえのはなしである。だが、どこか信頼するSさんを裏切っているような気もする。ここらあたりからやっかいになってくる。
ボクはSさんと一緒に、ある若い学者に会いに行く。その学者はSさんが批判したNさんに協力を得て一冊の本を出したことがある。ボクは、ブログでその著作を紹介することをなんとなく躊躇した。特に意味はない。ただ、何もしないことを選んだのである。
ある男がその著作の文章の一部を、まるで自分が書いたかのように丸々インターネットに載せていた。それまでも彼は、新聞記事をテキストにして紹介してしまうようなことをちょくちょくしていた。注意しようかとも思ったが、同様の事例が横行している未成熟なコミュニティーでのことだから、黙っていることにした。
それでも少し気になって、ボクはその著作を持っていたので、その著作が写るようにそれとなく書斎の画像を撮影してブログに掲載してみたのだが、はたして彼は気づいたのかどうか。
現実とは、かように面倒である。だが、一年も経てば全ての出来事は薄れていく。だからボクは、それを待ってこの本を紹介してみるつもりなのだ。ただ、過去の記事にそっと追記するだけのことだが。
沖縄のこと。
5年くらい経てば、お名前も公表しよう。誰も読まない呟きだから、漏らすことのできるため息。
それとは違うはなし。
例えばNさんという表現者がいるとする。信頼するSさんという方が、Nさんのやっていることは間違っているという。なるほどと思えるご高論である。だが、それだけをもってボクはN氏個人を批判することはしない。あたりまえのはなしである。だが、どこか信頼するSさんを裏切っているような気もする。ここらあたりからやっかいになってくる。
ボクはSさんと一緒に、ある若い学者に会いに行く。その学者はSさんが批判したNさんに協力を得て一冊の本を出したことがある。ボクは、ブログでその著作を紹介することをなんとなく躊躇した。特に意味はない。ただ、何もしないことを選んだのである。
ある男がその著作の文章の一部を、まるで自分が書いたかのように丸々インターネットに載せていた。それまでも彼は、新聞記事をテキストにして紹介してしまうようなことをちょくちょくしていた。注意しようかとも思ったが、同様の事例が横行している未成熟なコミュニティーでのことだから、黙っていることにした。
それでも少し気になって、ボクはその著作を持っていたので、その著作が写るようにそれとなく書斎の画像を撮影してブログに掲載してみたのだが、はたして彼は気づいたのかどうか。
現実とは、かように面倒である。だが、一年も経てば全ての出来事は薄れていく。だからボクは、それを待ってこの本を紹介してみるつもりなのだ。ただ、過去の記事にそっと追記するだけのことだが。
沖縄のこと。
5年くらい経てば、お名前も公表しよう。誰も読まない呟きだから、漏らすことのできるため息。