6月13日金曜日: 13日の金曜日のcoffee break
カテゴリ: 書斎で書くこと
6月12日木曜日: 1983年以前のノート《統一の意思》
カテゴリ: 書斎で書くこと
1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。
僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。
ただ、捨てずに残したものがあった。
レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。
身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。
大袈裟な話しだ。
ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。
少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。
至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。
分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。
君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。
「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。
その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。
僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。
ただ、捨てずに残したものがあった。
レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。
身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。
大袈裟な話しだ。
ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。
少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。
至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。
分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。
君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。
「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。
その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。
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6月 9日月曜日: 「語るな、かたち作れ」
カテゴリ: 書斎で書くこと
1983年の僕のノートには、次のような引用が書き込まれてありました。
埴谷雄高「死霊の序」より
「もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱりと叫び得たとしたら、そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。私はひたすらその一語のみを求める。」
1989年、僕は再度この文章について、ノートに書き残しました。
6年前のボクは、この〈内容〉だけが問題だった。しかし今読み返して気にかかるのは、むしろその前後の文章の〈姿〉なのだ。
《前》「そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起こることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描き出す音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず」……
《後》「けれども、恐らくその出発点が間違っている私には、その一つの言葉、その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である。」
「死霊」の晩年に書かれた部分は、緊迫感が薄いという評判もあります。最後のほうの苦労は、いかに小説的に面白くするかだったというようなことを、埴谷雄高自身が語っていたという話も聞きます。
ゲーテは、世の芸術家に向けて、「語るな、かたち作れ」と言いました。
「鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあれば、この拷問的の荒縄を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに」梶井基次郎
この一文で、梶井基次郎は、語ったのでしょうか、それとも形づくったのでしょうか。
ある筋のお方のリクエストにお答えして、再度アルトーに登場してもらいましょう。
「哲学的闘争の後に形づくられる一つの無軌道……二重の仕事」
続きまして、もしかして、こんなのもお好きかしらん?
近代主義の雑誌『南―北(ノール・シュド)』(1917年3月創刊、パリ)1918年3月号、編集者ピエール・ルヴェルディのエッセーの一節。ブルトン一派のシュルレアリスム方法論の確立に有力な示唆を与える。
「イメージは、精神の純粋な創造物であり、それは比較から生まれるものでなく、多少とも相離れたふたつの現実の接触から生れる。この接触するふたつの現実の相互関係が、相離れておればおるほど、しかもそれが正当であればあるほどイメージは強烈なものになる。つまり、いっそう感動的な力と、詩的な現実をもつものとなろう。」
いったい僕は、何を書きたいのでしょう。連載漫画。いたって冴えないオチです。ドラフト保存のまんまにしておきゃよかった。
明日は、すっかり過去に逃げ込もう。
「死霊」 amazonへ続く・・・
埴谷雄高「死霊の序」より
「もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱりと叫び得たとしたら、そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。私はひたすらその一語のみを求める。」
1989年、僕は再度この文章について、ノートに書き残しました。
6年前のボクは、この〈内容〉だけが問題だった。しかし今読み返して気にかかるのは、むしろその前後の文章の〈姿〉なのだ。
《前》「そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起こることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描き出す音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず」……
《後》「けれども、恐らくその出発点が間違っている私には、その一つの言葉、その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である。」
「死霊」の晩年に書かれた部分は、緊迫感が薄いという評判もあります。最後のほうの苦労は、いかに小説的に面白くするかだったというようなことを、埴谷雄高自身が語っていたという話も聞きます。
ゲーテは、世の芸術家に向けて、「語るな、かたち作れ」と言いました。
「鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあれば、この拷問的の荒縄を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに」梶井基次郎
この一文で、梶井基次郎は、語ったのでしょうか、それとも形づくったのでしょうか。
ある筋のお方のリクエストにお答えして、再度アルトーに登場してもらいましょう。
「哲学的闘争の後に形づくられる一つの無軌道……二重の仕事」
続きまして、もしかして、こんなのもお好きかしらん?
近代主義の雑誌『南―北(ノール・シュド)』(1917年3月創刊、パリ)1918年3月号、編集者ピエール・ルヴェルディのエッセーの一節。ブルトン一派のシュルレアリスム方法論の確立に有力な示唆を与える。
「イメージは、精神の純粋な創造物であり、それは比較から生まれるものでなく、多少とも相離れたふたつの現実の接触から生れる。この接触するふたつの現実の相互関係が、相離れておればおるほど、しかもそれが正当であればあるほどイメージは強烈なものになる。つまり、いっそう感動的な力と、詩的な現実をもつものとなろう。」
いったい僕は、何を書きたいのでしょう。連載漫画。いたって冴えないオチです。ドラフト保存のまんまにしておきゃよかった。
明日は、すっかり過去に逃げ込もう。
「死霊」 amazonへ続く・・・
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6月 8日日曜日: その夜。
カテゴリ: 書斎で書くこと
父さん。
人間を「偉い」とか「偉くない」とかで判断していいのでしょうか。
僕は、父さんの書斎の本棚の中で、ひときわ異様に黒光りしていた埴谷雄高の「死霊」という本を持ち出して、一日中読みふけっています。いったいどうすれば、もっとも罪なく生きることができるのか、ずっと考え続けているのです。
父さん、父さんは若い頃、この未完の小説を、どのように読んだのですか? 父さんは、この恐ろしい小説から、どのように離れることができたのですか。
埴谷雄高が奥さんに堕胎させたというはなし、本当なのですか。もしそれが一番正しい選択だったのだとしたら、僕は、このまま生きていて許されるのでしょうか? この生きるという不快から逃れるには、死を選ぶしかないのでしょうか。お願いです父さん、どうか教えて欲しいのです。
息子よ。
おまえは、どのようにして、毎日お前の腹を満たしているのだ? 責めているのではない。決して責めているのではないから、どうか、死なねばならないなどと考えて、毎日君のために食事を作ってくれる母さんを、君の大好きな母さんを悲しませるようなことは、絶対にしてはいけない。
息子よ。ずっと閉ざされたまま久しい君の部屋の窓を、明日の朝一番に開け放してみなさい。そして、部屋の中に新鮮な風を入れ、いっぱいの日の光で満たしてみなさい。そうすれば、君の元気も少しは回復するだろうから、どうだ、今度父さんと旅に出かけてみないか。母さんの生まれた南国の島へ、ふたりで行ってみないか。
君が沖縄で癒されるだろうなどと、そんな甘ったれたことを考えているわけではない。そうではなくて、君の母さんがずっと抱え込んできた現実を、君にも感じてもらいたいのだ。あの頃の父さんが出会った沖縄を、君に知ってもらいたいのだ。そうすれば、父さんがどのように「死霊」を忘れることができたのか、きっとわかってもらえるに違いない。
今日、君に問われて、父さんは「死霊」のこと、思い出そうとしたのだが、ずいぶんと忘れてしまっていることに気がついた。もう一度読み直してみようかと思ったが、会社なんかやりながら、片手間に読めるような代物じゃない。そのぐらいのことは覚えている。
いつか君と泡盛でも飲みながら、君から「死霊」についての講義が聞ける時の来ることを、父さんはとても楽しみにしているよ。
注:ここに登場した「息子」はフィクションです。実在の人物とは全く関係ありません。(ほんとかな)
人間を「偉い」とか「偉くない」とかで判断していいのでしょうか。
僕は、父さんの書斎の本棚の中で、ひときわ異様に黒光りしていた埴谷雄高の「死霊」という本を持ち出して、一日中読みふけっています。いったいどうすれば、もっとも罪なく生きることができるのか、ずっと考え続けているのです。
父さん、父さんは若い頃、この未完の小説を、どのように読んだのですか? 父さんは、この恐ろしい小説から、どのように離れることができたのですか。
埴谷雄高が奥さんに堕胎させたというはなし、本当なのですか。もしそれが一番正しい選択だったのだとしたら、僕は、このまま生きていて許されるのでしょうか? この生きるという不快から逃れるには、死を選ぶしかないのでしょうか。お願いです父さん、どうか教えて欲しいのです。
息子よ。
おまえは、どのようにして、毎日お前の腹を満たしているのだ? 責めているのではない。決して責めているのではないから、どうか、死なねばならないなどと考えて、毎日君のために食事を作ってくれる母さんを、君の大好きな母さんを悲しませるようなことは、絶対にしてはいけない。
息子よ。ずっと閉ざされたまま久しい君の部屋の窓を、明日の朝一番に開け放してみなさい。そして、部屋の中に新鮮な風を入れ、いっぱいの日の光で満たしてみなさい。そうすれば、君の元気も少しは回復するだろうから、どうだ、今度父さんと旅に出かけてみないか。母さんの生まれた南国の島へ、ふたりで行ってみないか。
君が沖縄で癒されるだろうなどと、そんな甘ったれたことを考えているわけではない。そうではなくて、君の母さんがずっと抱え込んできた現実を、君にも感じてもらいたいのだ。あの頃の父さんが出会った沖縄を、君に知ってもらいたいのだ。そうすれば、父さんがどのように「死霊」を忘れることができたのか、きっとわかってもらえるに違いない。
今日、君に問われて、父さんは「死霊」のこと、思い出そうとしたのだが、ずいぶんと忘れてしまっていることに気がついた。もう一度読み直してみようかと思ったが、会社なんかやりながら、片手間に読めるような代物じゃない。そのぐらいのことは覚えている。
いつか君と泡盛でも飲みながら、君から「死霊」についての講義が聞ける時の来ることを、父さんはとても楽しみにしているよ。
注:ここに登場した「息子」はフィクションです。実在の人物とは全く関係ありません。(ほんとかな)
6月 7日土曜日: 道徳的であることと誠実であること
カテゴリ: 書斎で書くこと
ドラフト保存というのでしょうか。メールでいうところの「下書き保存」というやつです。
本来、ブログって、その日その時の感覚を、すっと記録して、さらりと公開する、まったくもって軽やかなものであるべきなのかもしれません。しかし、僕は、思いついたことを、そっと書いてはみるが、なんだか納得できなくて、だからドラフト保存なるものをして、そのまま置いておきます。そうして後日、その気になった時、ちょいと整えて、そして公開するのです。
何故なんだろう、と考えています。どうやら僕は、今の「生」を記録することなど、絶対にできない不可能ごとなのだと思い込んでいるらしいのです。どんなにあがいても、「記録」とは「死」でしかないというふうに。
1983年の7月のノートに、カミュの「手帖」から、次のような一文を、僕は書き写しています。
「ぼくのなかには或る混乱が、或る怖ろしい無秩序がある。創造することは、ぼくには無数の死に値してしまう。なぜなら、創造とは秩序に関わることだし、ぼくの全存在は秩序を拒絶するからだ。だが秩序がなければ、ぼくは拡散して死んでしまうだろう。」
CDを作るということ、売り込むこと、何かを書き残すということ、それらに対する迷いの原点が、ここにあります。それはどういうことか、理屈はいくらでも語れます。しかし、結局それらは、全て嘘のような気もします。
「道徳的であることと、誠実であることのディレンマ」ジイド
何もしないことが誠実なことなのだと、自殺する勇気のない僕は、毎日飲んだくれては、うめいていたのです。
僕は、そこから本当に逃れられているのでしょうか。一週間以上前の文章を手直しして公開するような、こんなインチキブログを書いているところをみると、どうやら病は慢性化して、極めて性質の悪いものになっているのかもしれません。
過去の日記を修正するなんて、潔く死ねない女々しい男だということさ。はなっから、死んでるんじゃないのかい?
つまらない結論です。
これから、沖縄へ行きます。仕事です。沖縄について、書かねばならないことがいっぱいあります。しかし、今のところ、それらはみんな、ドラフト保存して、暖めておくことにします。
本来、ブログって、その日その時の感覚を、すっと記録して、さらりと公開する、まったくもって軽やかなものであるべきなのかもしれません。しかし、僕は、思いついたことを、そっと書いてはみるが、なんだか納得できなくて、だからドラフト保存なるものをして、そのまま置いておきます。そうして後日、その気になった時、ちょいと整えて、そして公開するのです。
何故なんだろう、と考えています。どうやら僕は、今の「生」を記録することなど、絶対にできない不可能ごとなのだと思い込んでいるらしいのです。どんなにあがいても、「記録」とは「死」でしかないというふうに。
1983年の7月のノートに、カミュの「手帖」から、次のような一文を、僕は書き写しています。
「ぼくのなかには或る混乱が、或る怖ろしい無秩序がある。創造することは、ぼくには無数の死に値してしまう。なぜなら、創造とは秩序に関わることだし、ぼくの全存在は秩序を拒絶するからだ。だが秩序がなければ、ぼくは拡散して死んでしまうだろう。」
CDを作るということ、売り込むこと、何かを書き残すということ、それらに対する迷いの原点が、ここにあります。それはどういうことか、理屈はいくらでも語れます。しかし、結局それらは、全て嘘のような気もします。
「道徳的であることと、誠実であることのディレンマ」ジイド
何もしないことが誠実なことなのだと、自殺する勇気のない僕は、毎日飲んだくれては、うめいていたのです。
僕は、そこから本当に逃れられているのでしょうか。一週間以上前の文章を手直しして公開するような、こんなインチキブログを書いているところをみると、どうやら病は慢性化して、極めて性質の悪いものになっているのかもしれません。
過去の日記を修正するなんて、潔く死ねない女々しい男だということさ。はなっから、死んでるんじゃないのかい?
つまらない結論です。
これから、沖縄へ行きます。仕事です。沖縄について、書かねばならないことがいっぱいあります。しかし、今のところ、それらはみんな、ドラフト保存して、暖めておくことにします。