7月21日月曜日: ひらがなのじっけん
カテゴリ: 書斎で書くこと
ひらがなのじっけん。
ほんとうのことをいわないでいると、らくにくらせることをおぼえた。
ほんとうのことはかこのことにして、そっときみのまえにおいておく。
ほんとうのことはつかれるので、かこくらいがちょうどいい。
でも、いきているうちにかたるかこというものはいかにもいかがわしくて、
だからぼくのかこは、ぼくがしぬまでかこになりきれない。
かこのけいけんじょういうのだが、いくらしにたいといっても、
じっさいにしんでみせるまでは、だれもしんじてはくれない。
ほんとうのことをいわないでいると、らくにくらせることをおぼえた。
ほんとうのことはかこのことにして、そっときみのまえにおいておく。
ほんとうのことはつかれるので、かこくらいがちょうどいい。
でも、いきているうちにかたるかこというものはいかにもいかがわしくて、
だからぼくのかこは、ぼくがしぬまでかこになりきれない。
かこのけいけんじょういうのだが、いくらしにたいといっても、
じっさいにしんでみせるまでは、だれもしんじてはくれない。
7月15日火曜日: ひらがなのかくめい
カテゴリ: 書斎で書くこと
太宰治「かくめい」の全文。
「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からのかくめいが、いつまでも、できないのです。」
ところどころ漢字である。よく眺めれば眺めるほど、この使い分けが完璧に見えてくる。これ以外、他には考えられないと思えてくる。
石川啄木に「ローマ字日記」というものがある。内容が内容だけに、ローマ字を使って書いた啄木の意図は別のところにあったのだろうが、結果的に、この日記はローマ字で読まれることによって、その「凄み」が増す。
ひらがなにも、同じようなことがいえる。ローマ字もひらがなも、それによって読者は一音一音粒立てて読むことを強いられ、否応なしに停滞させられるのである。読者は斜め読みすることができない。これは、英語では考えられないことなのかもしれない。
きっと、朗読にも、同じ効果がある。時間を支配するのは、読み手ではなく送り手側なのである。ただ、「ひらがな」や「ローマ字」は、その企みが隠されてあるから、読者は、この時間の流れの責任は、自分にあるのだと錯覚する。しかし、朗読は露骨だ。だから、時に、嫌われる。
(ここに、日本におけるオーディオブックのヒントがある。)
「詩」の隠喩にも、きっと、同じことがある。
ふたたび、だざいの「かくめい」。
僕は、だざいの「ひらがな」の「たくらみ」に、まんまと、ひっかかっている。
「こうしなければならぬ」と「おっしゃっている」「じぶん」とは、いったいだれのことなのか、そこに、ひっかかってしまっている。
amazonへ
「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からのかくめいが、いつまでも、できないのです。」
ところどころ漢字である。よく眺めれば眺めるほど、この使い分けが完璧に見えてくる。これ以外、他には考えられないと思えてくる。
石川啄木に「ローマ字日記」というものがある。内容が内容だけに、ローマ字を使って書いた啄木の意図は別のところにあったのだろうが、結果的に、この日記はローマ字で読まれることによって、その「凄み」が増す。
ひらがなにも、同じようなことがいえる。ローマ字もひらがなも、それによって読者は一音一音粒立てて読むことを強いられ、否応なしに停滞させられるのである。読者は斜め読みすることができない。これは、英語では考えられないことなのかもしれない。
きっと、朗読にも、同じ効果がある。時間を支配するのは、読み手ではなく送り手側なのである。ただ、「ひらがな」や「ローマ字」は、その企みが隠されてあるから、読者は、この時間の流れの責任は、自分にあるのだと錯覚する。しかし、朗読は露骨だ。だから、時に、嫌われる。
(ここに、日本におけるオーディオブックのヒントがある。)
「詩」の隠喩にも、きっと、同じことがある。
ふたたび、だざいの「かくめい」。
僕は、だざいの「ひらがな」の「たくらみ」に、まんまと、ひっかかっている。
「こうしなければならぬ」と「おっしゃっている」「じぶん」とは、いったいだれのことなのか、そこに、ひっかかってしまっている。
amazonへ
» 続きを読む
7月14日月曜日: 夢のかけら
カテゴリ: 書斎で書くこと
文藝家協会で勉強したこと。著作権料について。
他人の文章を引用した場合、その出典を明らかにし、さらにその引用した文章より長い評論(当然引用文を除いて)であれば著作権料は発生しない。厳密なルールに従えば、たとえ長編小説の全文を引用しても、それより長い評論を付ければよいということになる。
加藤君の「ゆめのかけら」の全文。
かけらがかけたらかけらがふえた
かけた分だけかけらがへった
(『もしここが北極点でも僕は南にいかない』加藤彰仁)
なぜ加藤彰仁は、「分」だけ漢字にしたのだろうか。残念ながら、最後にきて統一を失ってしまったと言わざるを得ない。
これで著作権料が免除されました。
冗談。でも加藤君、なんで「分」を漢字にしたのか、今度会ったらその深い理由を教えてね。
一冊の詩集からたった一遍の詩をひっぱり出してきて、なんだかんだ語るのはフェアじゃない。だが、大御所の作品を若い無名の青年が批評しようものなら、立場はあっという間に逆転する。下手なことを書けば、つぶされるのは青年の方だ。
はなしがそれた。
僕は加藤君の詩を批評しようなんて思っちゃいない。加藤君の名誉のために言っておくが、この「ゆめのかけら」だけを取り出して茶化しては申し訳ない。加藤君の言葉は、僕が語るようなシャレではない。きっと、もっと大切なものだ。ただ、この詩が今の僕に妙に符合していて、僕はそれを面白がって、相変わらずシャレてみたくなったのだ。
いったい人は最大いくつの夢を持つことができるのだろう。
夢がふたつになったみっつになったと喜んでいたが、みっつの夢をテーブルに並べてパズルみたいにくっつけてみたら、なつかしい最初の夢の形になった。なんだかつまらなくなって、みっつのかけらを、それぞれ煎餅砕くみたいに粉々にして、しまいには星の砂くらいになったそいつらをかき集め、瓶詰にして出窓に飾ってみたまではよかったけれど、それでも飽き足らず、すりこぎなんか持ち出してゴリゴリやっていたら、いつのまにか風に吹き飛ばされて、みんな無くなっちまった・・・
大江健三郎は谷川俊太郎の詩を絶賛したのだが、谷川俊太郎はダンプカーに突っ込まれたような気がしたんだとか。
夢丸さんの落語の題名が、そういえば「夢のかけら」だったっけ。
深夜、帰り支度をして、電気の消えた事務所を見回したら、オイラのかけらが、夜光虫みたいに青白く光って、そこいらじゅうに散乱していたんだ・・・
他人の文章を引用した場合、その出典を明らかにし、さらにその引用した文章より長い評論(当然引用文を除いて)であれば著作権料は発生しない。厳密なルールに従えば、たとえ長編小説の全文を引用しても、それより長い評論を付ければよいということになる。
加藤君の「ゆめのかけら」の全文。
かけらがかけたらかけらがふえた
かけた分だけかけらがへった
(『もしここが北極点でも僕は南にいかない』加藤彰仁)
なぜ加藤彰仁は、「分」だけ漢字にしたのだろうか。残念ながら、最後にきて統一を失ってしまったと言わざるを得ない。
これで著作権料が免除されました。
冗談。でも加藤君、なんで「分」を漢字にしたのか、今度会ったらその深い理由を教えてね。
一冊の詩集からたった一遍の詩をひっぱり出してきて、なんだかんだ語るのはフェアじゃない。だが、大御所の作品を若い無名の青年が批評しようものなら、立場はあっという間に逆転する。下手なことを書けば、つぶされるのは青年の方だ。
はなしがそれた。
僕は加藤君の詩を批評しようなんて思っちゃいない。加藤君の名誉のために言っておくが、この「ゆめのかけら」だけを取り出して茶化しては申し訳ない。加藤君の言葉は、僕が語るようなシャレではない。きっと、もっと大切なものだ。ただ、この詩が今の僕に妙に符合していて、僕はそれを面白がって、相変わらずシャレてみたくなったのだ。
いったい人は最大いくつの夢を持つことができるのだろう。
夢がふたつになったみっつになったと喜んでいたが、みっつの夢をテーブルに並べてパズルみたいにくっつけてみたら、なつかしい最初の夢の形になった。なんだかつまらなくなって、みっつのかけらを、それぞれ煎餅砕くみたいに粉々にして、しまいには星の砂くらいになったそいつらをかき集め、瓶詰にして出窓に飾ってみたまではよかったけれど、それでも飽き足らず、すりこぎなんか持ち出してゴリゴリやっていたら、いつのまにか風に吹き飛ばされて、みんな無くなっちまった・・・
大江健三郎は谷川俊太郎の詩を絶賛したのだが、谷川俊太郎はダンプカーに突っ込まれたような気がしたんだとか。
夢丸さんの落語の題名が、そういえば「夢のかけら」だったっけ。
深夜、帰り支度をして、電気の消えた事務所を見回したら、オイラのかけらが、夜光虫みたいに青白く光って、そこいらじゅうに散乱していたんだ・・・
7月 8日火曜日: たくさんの過去を束ねて
カテゴリ: 書斎で書くこと
許したと言われたからといって、人は戻ってこない。
いったい何をもって、人は人を許したり許さなかったりするのだろう。
罪を償えば許されるのかもしれないが、しかし罪が消えることはあるまい。きっと、許されても消えない罪があることを知っているから、許されても、人は戻ってこない。
再びのこと。いったい何をもって、人は人を許したり許さなかったりするのだろう。
お互いに許さないと言う。どちらが正しのか。きっとどちらも正しい。そして、どちらも罪を背負っている。
何度でも言う。人間とは、そのようにしか生きられないのだ。
どうしても許せぬことがあるというなら、お前はそれを永遠に許してはならない。それがお前の正しい「行き方」なのだから。しかし、お前が許さないというその相手もまた、お前を許すことはないだろう。どちらの方が正しいのか、決着などつける必要はない。どう転んでも、お前の「正しさ」が消えるわけではない。
僕は君を許したと言う。しかし、いくら許してもその罪が消えないのなら、許す許さないなどどうでもいい。
俺はあなたを許したと言う。しかし、本当に許されていないのは、いったい誰なのか。
もう何も語る必要はないのだから、ぷいっと出ていってしまえばいいのだ。そして、知らぬうちに、そっと戻ってくればいい。消えぬ罪を抱えたままに。
本当にこのわたくしが戻りさえすれば、貴方がたもお戻りになられるのでしょうか?
おやめなさい、そんなふうにお考えになるのは。
今日、僕は、たくさんの過去を束ねて、そうして思い出しているのだが。
僕は、沖縄の芝居を書き始めるのです。それは来年のことか。それとも15年前のことなのか。
「ユルスって、どういうことなのですか?」
南国の少女が、じっとこちらを見つめながら、僕らに、そう問いかけている。
いったい何をもって、人は人を許したり許さなかったりするのだろう。
罪を償えば許されるのかもしれないが、しかし罪が消えることはあるまい。きっと、許されても消えない罪があることを知っているから、許されても、人は戻ってこない。
再びのこと。いったい何をもって、人は人を許したり許さなかったりするのだろう。
お互いに許さないと言う。どちらが正しのか。きっとどちらも正しい。そして、どちらも罪を背負っている。
何度でも言う。人間とは、そのようにしか生きられないのだ。
どうしても許せぬことがあるというなら、お前はそれを永遠に許してはならない。それがお前の正しい「行き方」なのだから。しかし、お前が許さないというその相手もまた、お前を許すことはないだろう。どちらの方が正しいのか、決着などつける必要はない。どう転んでも、お前の「正しさ」が消えるわけではない。
僕は君を許したと言う。しかし、いくら許してもその罪が消えないのなら、許す許さないなどどうでもいい。
俺はあなたを許したと言う。しかし、本当に許されていないのは、いったい誰なのか。
もう何も語る必要はないのだから、ぷいっと出ていってしまえばいいのだ。そして、知らぬうちに、そっと戻ってくればいい。消えぬ罪を抱えたままに。
本当にこのわたくしが戻りさえすれば、貴方がたもお戻りになられるのでしょうか?
おやめなさい、そんなふうにお考えになるのは。
今日、僕は、たくさんの過去を束ねて、そうして思い出しているのだが。
僕は、沖縄の芝居を書き始めるのです。それは来年のことか。それとも15年前のことなのか。
「ユルスって、どういうことなのですか?」
南国の少女が、じっとこちらを見つめながら、僕らに、そう問いかけている。
7月 1日火曜日: 沖縄という名の罠(7月16日のこと)
カテゴリ: 書斎で書くこと
切った爪がどこかへ飛んでいって、それがいくら探しても見つからない。
ままよ、忘れちまえと思うのだが、やっぱりなんだか気になって、読んでる本の内容が、ちっとも頭に入ってこない・・・
と、たった今のことを書いてみる。
書く? 書いちゃいない。キーボードを打つ行為のことを、どういうふうに表現すればいいのだろう。
きっと、世の中の多くのブログは、こんな風に自らのちっちゃな神経症をネタにして、そこから始まる連想ゲームで、それっぽい雰囲気を醸し出していくらしい。
まるで、自分はそうじゃないと言いたげだ。やめておこう。
こうやって、行を開けるのも、なんとも気持ちが悪い。
30年前の高校の出来事について、ちょいと仕事の合間にちょこちょこやっつけた。4回目を仕上げて読み返したら、1・2回目と3・4回目の文体がすっかり違っていたので、ありゃりゃと思って、さっさと直してほったらかした。いまさっき、また改めて読んでみたのだが、直したとこ直さないとこ、なんだかめちゃくちゃになっていた。こんなことなら直さなきゃよかったとブツブツひとりごちしながらまたいじくったのだが、いっぺん崩れた文章は、ちっとやそっとじゃ整わない。こいつは、切った爪が見つからないより、はるかに始末が悪い。
しかし、時間が無いから、ままよ、である。
M.A.P.after5の7月16日の記事について。なんでそれが7月1日に書けるのか、要するにそのくらい嘘っぱちのブログだということなのだ・・・
それでも、どうしても今日、書きたいことがある。
M.A.P.after5の7月16日の記事について。
昨日まで、無味乾燥だったM.A.P.after5情報、それもまた仕組まれたブログなのだが、それがあのたった1枚の写真で、すっかり雰囲気が変わってしまったのだ。又吉健次郎おじいの姿。実は、あの方は大変な人なのだが、今はそんなこと語らない。そんなことではなくて、たった1枚のスナップのこと、健次郎おじいの、あの暖かい存在感は、いったい何なのだろう。
過去だ未来だ、嘘だまことだと、様々な手練手管を使って、虚飾の巨大な宇宙を創造するのだという企て、いや本当にそんなことできると思っているわけじゃないが、少なくとも、そのようにしか人間は生きられないのだという理屈を、あっさりと飛び越えて、健次郎おじいは、確かにそこにいる。哲学的な言葉を、敢えてやけくそで使ってしまうなら、健次郎おじいは、即自存在として、揺るぎなく「ある」のだ。大きいというのではない。決して迫ってはこない。誰でも快く受け入れてくれるであろうことを誰も疑わない、いわば、人間として、あるべくしてそこにある、という「生き方」。
ここなのだ。ここに、「沖縄」という「罠」がある。
だが、今日はこれ以上語るまい。今日の、この僕の感覚も、ひとつの神経症なのかもしれない。この雰囲気に心地よく流されていくことを、僕は今のところ、やはり断固拒否をしておく。
とはいうものの、たった一枚のスナップの、又吉健次郎おじいは、やはりとてつもなく素敵で、今日の僕を、うれしくさせているのだ。そのことを今日、どうしても書いておきたかったのである。
ままよ、忘れちまえと思うのだが、やっぱりなんだか気になって、読んでる本の内容が、ちっとも頭に入ってこない・・・
と、たった今のことを書いてみる。
書く? 書いちゃいない。キーボードを打つ行為のことを、どういうふうに表現すればいいのだろう。
きっと、世の中の多くのブログは、こんな風に自らのちっちゃな神経症をネタにして、そこから始まる連想ゲームで、それっぽい雰囲気を醸し出していくらしい。
まるで、自分はそうじゃないと言いたげだ。やめておこう。
こうやって、行を開けるのも、なんとも気持ちが悪い。
30年前の高校の出来事について、ちょいと仕事の合間にちょこちょこやっつけた。4回目を仕上げて読み返したら、1・2回目と3・4回目の文体がすっかり違っていたので、ありゃりゃと思って、さっさと直してほったらかした。いまさっき、また改めて読んでみたのだが、直したとこ直さないとこ、なんだかめちゃくちゃになっていた。こんなことなら直さなきゃよかったとブツブツひとりごちしながらまたいじくったのだが、いっぺん崩れた文章は、ちっとやそっとじゃ整わない。こいつは、切った爪が見つからないより、はるかに始末が悪い。
しかし、時間が無いから、ままよ、である。
M.A.P.after5の7月16日の記事について。なんでそれが7月1日に書けるのか、要するにそのくらい嘘っぱちのブログだということなのだ・・・
それでも、どうしても今日、書きたいことがある。
M.A.P.after5の7月16日の記事について。
昨日まで、無味乾燥だったM.A.P.after5情報、それもまた仕組まれたブログなのだが、それがあのたった1枚の写真で、すっかり雰囲気が変わってしまったのだ。又吉健次郎おじいの姿。実は、あの方は大変な人なのだが、今はそんなこと語らない。そんなことではなくて、たった1枚のスナップのこと、健次郎おじいの、あの暖かい存在感は、いったい何なのだろう。
過去だ未来だ、嘘だまことだと、様々な手練手管を使って、虚飾の巨大な宇宙を創造するのだという企て、いや本当にそんなことできると思っているわけじゃないが、少なくとも、そのようにしか人間は生きられないのだという理屈を、あっさりと飛び越えて、健次郎おじいは、確かにそこにいる。哲学的な言葉を、敢えてやけくそで使ってしまうなら、健次郎おじいは、即自存在として、揺るぎなく「ある」のだ。大きいというのではない。決して迫ってはこない。誰でも快く受け入れてくれるであろうことを誰も疑わない、いわば、人間として、あるべくしてそこにある、という「生き方」。
ここなのだ。ここに、「沖縄」という「罠」がある。
だが、今日はこれ以上語るまい。今日の、この僕の感覚も、ひとつの神経症なのかもしれない。この雰囲気に心地よく流されていくことを、僕は今のところ、やはり断固拒否をしておく。
とはいうものの、たった一枚のスナップの、又吉健次郎おじいは、やはりとてつもなく素敵で、今日の僕を、うれしくさせているのだ。そのことを今日、どうしても書いておきたかったのである。