何の気なしにテレビをつけたら、大滝修治さんの顔が大写しになった。ドラマの中で延々と演説をしている。北海道の地方局が制作したドラマらしい。

かつて僕は、今は亡き演出家の加藤新吉さんに、声のよさを褒められたことがある。それがとても嫌だった。その新吉さんから、誰か他の俳優で、君がこの人はいい声だと思うような役者はいるかと問われて、僕はあえて悪声の大滝修治さんの名を挙げた。新吉さんは、屈折したやつだとでも言いたげに、皮肉っぽいうすら笑いを浮かべた。

そういえばこんなことを言われたこともあった。君は花を見て素直に美しいと思ったことがあるかと。僕は記憶にないと答えた。

車の免許を取ることにした。すると新吉さんは、役者が車の免許なんか取っちゃだめだと言った。なぜという僕の問いに、タクシーの運転手になっちゃうよとの答え。タクシーの運転手がいけないというのではない。役者を目指す者が、潰しのきく資格なんか持ったら、あっという間に役者なんか辞めちまうだろう、自分を逃げ場のないところに追い込まなければ、いっぱしの役者なんかには到底なれるものではないという苦言であった。

何年か経って、僕が悶々と穴ぼこに落ち込んでいたころ、久々に会った新吉さんに、どうやら僕は天才ではないらしいということに気が付きましたと、半ば冗談で言ったら、やっと気がついたの、よかったね、と真顔で言われた。

そんなことをつらつらと思い出しながらテレビの画面を眺めていたら、最後に流れていくテロップの中に、知った人の名前を見つけた。かつて一緒に芝居をしていた女優さんの名前。彼女は旦那さんの転勤で故郷の北海道に帰っていったのだが、しばらくして彼女から、アイヌの芝居をやりたいから脚本を書いてくれないかという長文の手紙が届いた。しかし結局、僕は彼女の期待に答えることができなかった。

アイヌのことは、確かに考え続けていた。そんな僕を彼女は知っていたから、それで頼んだのであろう。でっち上げようと思えばでっちあげるだけのネタは持っていた。だがネタが増えれば増えるほど、書くことが困難になった。あれほど考えていたアイヌのことなのに、僕の過去のノートのどこを探しても、まともにアイヌについて書いた文章は見つからない。
今日のこの文章だって、新吉さんのどうでもいい話しあたりから始めないと、アイヌまで辿り着くことができないのだから情けない。

実は白状すると、沖縄のことはなおさらで、まずはアイヌのことから語らないと、とてもじゃないが沖縄のことなど語れないと僕は思っているらしいのである。
ああ、こういう言い方がまずい。まず「アイヌのこと」という言い方がどうなんだろう。しかし、殊更気を使って「アイヌの人たちのこと」と言い換えてみても、それはそれでしっくりこないのだ。「アイヌの人たち」という配慮を考えなければならないというそのことが、何か違うのである。あるいはまた、決して「アイヌのこと」が「沖縄のこと」より簡単なわけではないし、また「アイヌのこと」と「沖縄のこと」は、同列に並べられるようなものでもないはずだ。
それにしても僕は、いくつかの「アイヌ」に関わるエピソードを語ってからでなくては、やっぱり先に進めないような気がして仕方がないのである。

僕は、インターネットという世界に向けては、思想的な立場での発言は一切しないと決めてみたのだが、たぶん具体的なことに触れるようになれば、そうもいかなくなるに違いない。だから、なんとも憂鬱なのである。

まずひとつ。

ちょっと前のこと。東京都の某知事が某「東京なんたらテレビ」で語っていたこと。「日本人の原点は縄文人で、それは北のアイヌと南の沖縄に受け継がれていて、つまりアイヌと沖縄は全く同じなんですよ」云々。そういう考え方がないわけではないが、しかし今は、アイヌと沖縄とは違うルーツを持つというのがかなり有力な説であって、けれども私はこう考えるというのならまだしも、まるで答えはひとつだみたいな断定をするのは、勉強不足のせいなのか、あるいは確信犯なのか、いずれにしろこういう人が人気があるって、そんなことでいいのだろうかと、ひどく悲しくなった、というエピソード。

今日はもうこれ以上何も言わないことに決めたのだ。