6月29日月曜日: 朗読の形而上学(第三回)序章(3)
カテゴリ: 書斎で書くこと
演技と同じように、朗読もまた、テキストに対する拒否反応を乗り越えるべきなのか。テキストの文章を自らの肉体に定着させなければならないものなのか。
朗読における「書かれた他人の文章」と「それを読む主体」との間に横たわる断層は、「戯曲」と「役者」のそれとは全く異質なものである。
演劇の場合、他人が書いた台詞を自分の言葉にしようとする時にまず拒否反応が起こるのであるが、だとすれば、朗読の拒否反応に演劇のような必然性はない。朗読が、単に文章を「読む」ことである限り、他人の言葉を自分の肉体に取り込んでまで別の人格に「なる」という必要はないからである。
つまり、拒否反応を乗り越えてテキストの文章を自らの肉体に定着させる朗読というものが存在していようがいまいが、朗読の形而上学においては関心のない問題である。朗読の本質は、ここにはない。
しかし、「拒否反応を乗り越えてテキストを自分の言葉にして語る朗読」というものについて、この序章において考察しておくのは、それなりに意味のあることのように思われる。
拒否反応を乗り越えることはそう簡単な作業でない。しかし、朗読を趣味とするオバサマたちは、その困難をどれほど理解しておられるのだろうか。気持ちよさそうに朗読するオバサマを見るにつけ、そう思うのである。
台詞が自分の言葉となっていない役者の演技など見たくはない。逆に、オバサマたちには申し訳ないのだが、演者が自ら読んで声に出した言葉が、自分の肉体から出たものだと能天気に信じている朗読など、もっと聞きたくない。そうした朗読は往々にして陳腐である。
そうなる原因のひとつは、自分の能力では消化しきれないテキストなのに、それでも自らの血管に取り込むことができると思う甘い考えにある。五合枡に一升の酒を注ぐことは不可能である。許容量が足りないのに、無理に詰め込もうとすれば、テキストを矮小化する以外にない。朗読が陳腐となる原因の多くはそれである。
作家の言葉が自分の血に流れ込んできて気持ちよく語れたと思ったら、それは勘違いではないかと、まず疑ってみた方がよい。作家が偉大であれば、その拒絶反応は激しく、一生一作品と格闘しても、自分の血となることはまずないと断言する。どうやら朗読する演者の多くは、都合よく作家の血を薄めてしまったことに気づかないらしい。
勘違いした朗読を聞かされて、テキストの世界から断絶させられてしまった観客は、たまったものではない。こうした朗読の氾濫は、本来朗読に関心を持ってくれるはずの、原典を重視する観客を、朗読が行われる会場から遠ざけることになるだろう。それは不幸である。
さらに別の例を挙げてみる。
僕は、宮沢賢治のテキストを題材にして音楽家と共演している。宮沢賢治を原文のまま読む。しかし我々は、宮沢賢治のテキストは自分たちの世界を表出するための単なる素材でしかないと宣言している。この作品で表現したいものは「宮澤賢治」ではなく、我々が創造した新たな世界なのだ。つまり、「本から一歩も出ない」という形而上学的朗読の戒律を初めから破っている。それはもう「朗読」とは違うものであるし、そして我々の公演に訪れる観客も、「朗読」を聞きに来るわけではない。我々の表現は、朗読の形而上的考察の対象から逸脱している。この場合のテキストと演者の関係を、ここでは敢えて恣意的であるとする。
要するに、我々は「宮沢賢治」から開放されているのである。そのことによって、逆説的に聞こえるかもしれないが、演者がテキストを自らの言葉にして語ることも可能となる。
我々が伝えようとしているものは宮沢賢治ではない。語られる言葉は賢治の創作した言葉であるが、我々にとって、それが賢治の声である必要は無い。我々は賢治のテキストを借りて、自らの声を伝えているのである。たとえ原作者賢治が、悲しみを伝えるために紡ぎだした言葉だとしても、我々はその言葉に最大限の喜びを被せて叫んでもかまわないのである。
そのようにして創作された我々の表現が、はたして「陳腐」から逃れられているのかどうかの判断は観客に委ねるしかないし、また、具体的事例の美学的批評は形而上学の範疇ではない。ただ、我々の表現は、宮沢賢治との関係で判断されるものではなく、ただその独自性において批判されるべきものであるということが、論理的な解である。
(ただ、これもあくまで「恣意的」な選択である。このことについては、後に述べることにしよう。)
しかし、朗読はそうではない。朗読が朗読である限り、常に原典との関係において批評される宿命を背負っているのだ。BGMや気の利いた映像などによっていくら補足してみても、朗読そのものの出来不出来に影響を与えるものではない。
確かに、どれほど朗読が陳腐であっても、テキストそのものの存在が朗読の技術を越えて余りあるほどに強かったり、流される音楽が極めて優れていたりすることによって、高い価値を有する朗読的作品もあるだろう。しかし、当然ながらそれは朗読そのものとは無関係である。そこを切り分けて考察することが、「形而上学」たる所以である。
さらに。
演劇の世界にリーディングという表現形態がある。本来、暗記して語られるべき戯曲の台詞を、台本を持って読むのである。結果、演者は朗読とかなり近しい作業をすることになるのだが、しかしリーディングは、朗読とは似て非なるものである。 なぜなら、リーディングで読むのは、もともと役者がしゃべることを目的にして書かれた台詞であって、自分自身の言葉に消化して読むか否かは、できるかどうかの可能性の問題ではなく、どれだけ演劇的な完成に近づけるかという演出方針に全てかかっている。従ってここでの演者とテキストの関係も、やはり「恣意的」な事例となる。
さて、「テキストを自分の言葉にする」という演劇における基本的な作業が、朗読ではかなり困難らしいのはいったい何故なのか。その理由は、原典との関係性において説明がつくように思われる。演劇の場合、原典(つまり戯曲)は、最終的には観客の目から消え去らなければならないものである。台詞を自分の言葉にしていない俳優がいると、そこから戯曲が透けて見えてくる。それは演劇的には瑕(きず)でしかない。ここに、「テキストを自分の言葉にする朗読」の困難さの鍵がある。朗読は、演劇とは逆に、原典のテキストが見えるべきものなのだから、テキストを自分の言葉にすることで原典を消してしまってはならないのだ。テキストを自分の言葉にして唯一許されるのは、作者の言葉と演者の言葉がピッタリと重なる場合のみであるが、その実現は限りなく不可能に近い。
テキストと演者との断層は、演劇の場合は同一になろうとする過程において強烈な拒否反応として現われ、それはやがて克服されなければならない。しかし朗読における断層は、今まで述べてきたように、同一になることのないテキスト(作者)と自分(読み手)との人格的差異である。同一になる必要が無ければ、強烈な拒否反応などは起こることはない。しかしこの差異は、微妙な違和感として消えることはない。
演じることにおいて、拒絶反応はその出発点であった。しかし、朗読において、この違和感は、出発点ではなくひとつの到達点なのである。
そろそろ「序章」を切り上げよう。
本編では、元来声に出して読まれることを想定せずに創作されたテキストを、音だけで如何に観客に伝えるのか、その方法論について考えてみようと思っている。
まずは日本語における書き言葉と話し言葉の差異について。
しかし、その日本の常識を覆す天才バカボンのパパ。書き言葉で話すバカボンパパ。
「パパは何者なのだ?」
「それでいいのだ」
朗読の形而上学の本編へ続く。
朗読における「書かれた他人の文章」と「それを読む主体」との間に横たわる断層は、「戯曲」と「役者」のそれとは全く異質なものである。
演劇の場合、他人が書いた台詞を自分の言葉にしようとする時にまず拒否反応が起こるのであるが、だとすれば、朗読の拒否反応に演劇のような必然性はない。朗読が、単に文章を「読む」ことである限り、他人の言葉を自分の肉体に取り込んでまで別の人格に「なる」という必要はないからである。
つまり、拒否反応を乗り越えてテキストの文章を自らの肉体に定着させる朗読というものが存在していようがいまいが、朗読の形而上学においては関心のない問題である。朗読の本質は、ここにはない。
しかし、「拒否反応を乗り越えてテキストを自分の言葉にして語る朗読」というものについて、この序章において考察しておくのは、それなりに意味のあることのように思われる。
拒否反応を乗り越えることはそう簡単な作業でない。しかし、朗読を趣味とするオバサマたちは、その困難をどれほど理解しておられるのだろうか。気持ちよさそうに朗読するオバサマを見るにつけ、そう思うのである。
台詞が自分の言葉となっていない役者の演技など見たくはない。逆に、オバサマたちには申し訳ないのだが、演者が自ら読んで声に出した言葉が、自分の肉体から出たものだと能天気に信じている朗読など、もっと聞きたくない。そうした朗読は往々にして陳腐である。
そうなる原因のひとつは、自分の能力では消化しきれないテキストなのに、それでも自らの血管に取り込むことができると思う甘い考えにある。五合枡に一升の酒を注ぐことは不可能である。許容量が足りないのに、無理に詰め込もうとすれば、テキストを矮小化する以外にない。朗読が陳腐となる原因の多くはそれである。
作家の言葉が自分の血に流れ込んできて気持ちよく語れたと思ったら、それは勘違いではないかと、まず疑ってみた方がよい。作家が偉大であれば、その拒絶反応は激しく、一生一作品と格闘しても、自分の血となることはまずないと断言する。どうやら朗読する演者の多くは、都合よく作家の血を薄めてしまったことに気づかないらしい。
勘違いした朗読を聞かされて、テキストの世界から断絶させられてしまった観客は、たまったものではない。こうした朗読の氾濫は、本来朗読に関心を持ってくれるはずの、原典を重視する観客を、朗読が行われる会場から遠ざけることになるだろう。それは不幸である。
さらに別の例を挙げてみる。
僕は、宮沢賢治のテキストを題材にして音楽家と共演している。宮沢賢治を原文のまま読む。しかし我々は、宮沢賢治のテキストは自分たちの世界を表出するための単なる素材でしかないと宣言している。この作品で表現したいものは「宮澤賢治」ではなく、我々が創造した新たな世界なのだ。つまり、「本から一歩も出ない」という形而上学的朗読の戒律を初めから破っている。それはもう「朗読」とは違うものであるし、そして我々の公演に訪れる観客も、「朗読」を聞きに来るわけではない。我々の表現は、朗読の形而上的考察の対象から逸脱している。この場合のテキストと演者の関係を、ここでは敢えて恣意的であるとする。
要するに、我々は「宮沢賢治」から開放されているのである。そのことによって、逆説的に聞こえるかもしれないが、演者がテキストを自らの言葉にして語ることも可能となる。
我々が伝えようとしているものは宮沢賢治ではない。語られる言葉は賢治の創作した言葉であるが、我々にとって、それが賢治の声である必要は無い。我々は賢治のテキストを借りて、自らの声を伝えているのである。たとえ原作者賢治が、悲しみを伝えるために紡ぎだした言葉だとしても、我々はその言葉に最大限の喜びを被せて叫んでもかまわないのである。
そのようにして創作された我々の表現が、はたして「陳腐」から逃れられているのかどうかの判断は観客に委ねるしかないし、また、具体的事例の美学的批評は形而上学の範疇ではない。ただ、我々の表現は、宮沢賢治との関係で判断されるものではなく、ただその独自性において批判されるべきものであるということが、論理的な解である。
(ただ、これもあくまで「恣意的」な選択である。このことについては、後に述べることにしよう。)
しかし、朗読はそうではない。朗読が朗読である限り、常に原典との関係において批評される宿命を背負っているのだ。BGMや気の利いた映像などによっていくら補足してみても、朗読そのものの出来不出来に影響を与えるものではない。
確かに、どれほど朗読が陳腐であっても、テキストそのものの存在が朗読の技術を越えて余りあるほどに強かったり、流される音楽が極めて優れていたりすることによって、高い価値を有する朗読的作品もあるだろう。しかし、当然ながらそれは朗読そのものとは無関係である。そこを切り分けて考察することが、「形而上学」たる所以である。
さらに。
演劇の世界にリーディングという表現形態がある。本来、暗記して語られるべき戯曲の台詞を、台本を持って読むのである。結果、演者は朗読とかなり近しい作業をすることになるのだが、しかしリーディングは、朗読とは似て非なるものである。 なぜなら、リーディングで読むのは、もともと役者がしゃべることを目的にして書かれた台詞であって、自分自身の言葉に消化して読むか否かは、できるかどうかの可能性の問題ではなく、どれだけ演劇的な完成に近づけるかという演出方針に全てかかっている。従ってここでの演者とテキストの関係も、やはり「恣意的」な事例となる。
さて、「テキストを自分の言葉にする」という演劇における基本的な作業が、朗読ではかなり困難らしいのはいったい何故なのか。その理由は、原典との関係性において説明がつくように思われる。演劇の場合、原典(つまり戯曲)は、最終的には観客の目から消え去らなければならないものである。台詞を自分の言葉にしていない俳優がいると、そこから戯曲が透けて見えてくる。それは演劇的には瑕(きず)でしかない。ここに、「テキストを自分の言葉にする朗読」の困難さの鍵がある。朗読は、演劇とは逆に、原典のテキストが見えるべきものなのだから、テキストを自分の言葉にすることで原典を消してしまってはならないのだ。テキストを自分の言葉にして唯一許されるのは、作者の言葉と演者の言葉がピッタリと重なる場合のみであるが、その実現は限りなく不可能に近い。
テキストと演者との断層は、演劇の場合は同一になろうとする過程において強烈な拒否反応として現われ、それはやがて克服されなければならない。しかし朗読における断層は、今まで述べてきたように、同一になることのないテキスト(作者)と自分(読み手)との人格的差異である。同一になる必要が無ければ、強烈な拒否反応などは起こることはない。しかしこの差異は、微妙な違和感として消えることはない。
演じることにおいて、拒絶反応はその出発点であった。しかし、朗読において、この違和感は、出発点ではなくひとつの到達点なのである。
そろそろ「序章」を切り上げよう。
本編では、元来声に出して読まれることを想定せずに創作されたテキストを、音だけで如何に観客に伝えるのか、その方法論について考えてみようと思っている。
まずは日本語における書き言葉と話し言葉の差異について。
しかし、その日本の常識を覆す天才バカボンのパパ。書き言葉で話すバカボンパパ。
「パパは何者なのだ?」
「それでいいのだ」
朗読の形而上学の本編へ続く。
6月23日火曜日: 保障ではなく希望について語りたい
カテゴリ: 書斎で書くこと
誰もが死に行く人であることに間違いはない。明日死ぬかもしれないのだから、たった今を大切に生きよう。そんな白々しい説教を有り難がる男が、明日の予定だけを楽しみに、なんとか今日の仕事に耐えていたりする。
つまり、実は、明日に希望が無ければ、大概の人間は今日を生きる力を失うのである。
明日死ぬことを知らずに生きている者の「今日」より、医師から死を宣告された男の「今日」の方が充実しているなんて、いったいどこの誰が言った戯言なのか。人は、きっと未来に繋がる今日しか生きることができないのだ。だからこそ、奇跡を信じようとしてみたのだが、結局、奇跡など起ころうはずもなかった。
「なんだかなあ」
「笑うしかない」
いまだに未来があると信じることのできる者どもの、全てが過去となってしまった男についての会話はなんとも虚しい。
ただ、自分達がどれほど幸せであるかということを確認するために、僕は時々今日のこの日のことを思い出してみようと思っている。そして、消えようとする笑顔を取り戻すのである。
そういえば、明日を保障するために医者に行かなければならないのだが、今日の時間が全くもって足りない。しかし、今日の僕は、保障ではなく、希望について語りたいのである。
たくさんの心残りを抱えたまま去って行った彼は、そんな僕の身勝手を、はたしてどう思うのだろうか。
御冥福を、心よりお祈りする。
もう、これっきりにしよう……
つまり、実は、明日に希望が無ければ、大概の人間は今日を生きる力を失うのである。
明日死ぬことを知らずに生きている者の「今日」より、医師から死を宣告された男の「今日」の方が充実しているなんて、いったいどこの誰が言った戯言なのか。人は、きっと未来に繋がる今日しか生きることができないのだ。だからこそ、奇跡を信じようとしてみたのだが、結局、奇跡など起ころうはずもなかった。
「なんだかなあ」
「笑うしかない」
いまだに未来があると信じることのできる者どもの、全てが過去となってしまった男についての会話はなんとも虚しい。
ただ、自分達がどれほど幸せであるかということを確認するために、僕は時々今日のこの日のことを思い出してみようと思っている。そして、消えようとする笑顔を取り戻すのである。
そういえば、明日を保障するために医者に行かなければならないのだが、今日の時間が全くもって足りない。しかし、今日の僕は、保障ではなく、希望について語りたいのである。
たくさんの心残りを抱えたまま去って行った彼は、そんな僕の身勝手を、はたしてどう思うのだろうか。
御冥福を、心よりお祈りする。
もう、これっきりにしよう……
6月20日土曜日: 乗り越えてはいない
カテゴリ: 書斎で書くこと
眠りにつくことが怖かった。それは、悪夢を恐れたからではない。
あの頃、僕は夢の中で、いつも死から目を背けていた。夢こそが現実であると、夢の中の僕は信じていた。しかし、夢の中の僕が死から全く自由であったというわけではない。夢の中で、夢の中の現実を生きながら、僕は「死」の夢を見ていたのだ。癌に犯されているという夢、夢の中で見る夢。だがそれが夢である限りやがて消え去る。だから夢の中で、僕は救われていたのだ。しかし、眠りの数だけ、目覚めなければならぬ朝が来る。
僕の朝は、「自分が癌に犯されているというのは夢だったのだ」という朦朧とした安堵ととも始まる。その時、僕は、まだ夢の領域にいた。夢と現実の逆転した領域。しかし、その後に続く短い時間こそ、真の悪夢であった。
「自分が癌に犯されていること、それは本当に夢なのか、もしかすると、現実ではないのか」
眠りと覚醒の狭間で、僕は毎朝、半ば夢の中でそう自問した。
そして、僕は毎日、癌の宣告を受けたのである。
しかし、つまりは、僕は自分が癌であるということを、本当の意味で、ただの一度も受け入れたことなどなかったのではないか。表面的には受け入れたつもりであった。そしてそれを乗り越えてきたつもりでもあった。しかし、そうではないということを、あの頃の朝の記憶が物語っている。
もう今の僕は、眠ることを、あの頃のように恐れてはいない。極度の疲労の末、考えることも夢見ることもできぬほど疲弊した精神状態で、毎夜倒れるように眠りにつくことがその原因なのだろうとは思う。しかしそれならばなおさら、僕は癌体験を受け入れそして乗り越えたのではなく、ただただ忘れているだけなのだということを、ある人の壮絶な死を通して思い知らされている。
死んだ患者から信頼を失っていた医師を、決して責めることはできないのだと思う。死を告げる医師の言葉を拒否する以外に、すぐそこに迫っている自分の死から逃れる方途はなかったのだということに思いを馳せれば、患者を説き伏せることの出来なかった医師に、むしろ感謝すべきなのかもしれない。というよりも、医師が神でも無い限り、旅立っていった彼は、どんな医師をも信頼することは無かったのではないか。それが、彼にとって安らかに死ぬことのできる唯一の方法だったのではないか、と、思うのである。
あの頃、僕は夢の中で、いつも死から目を背けていた。夢こそが現実であると、夢の中の僕は信じていた。しかし、夢の中の僕が死から全く自由であったというわけではない。夢の中で、夢の中の現実を生きながら、僕は「死」の夢を見ていたのだ。癌に犯されているという夢、夢の中で見る夢。だがそれが夢である限りやがて消え去る。だから夢の中で、僕は救われていたのだ。しかし、眠りの数だけ、目覚めなければならぬ朝が来る。
僕の朝は、「自分が癌に犯されているというのは夢だったのだ」という朦朧とした安堵ととも始まる。その時、僕は、まだ夢の領域にいた。夢と現実の逆転した領域。しかし、その後に続く短い時間こそ、真の悪夢であった。
「自分が癌に犯されていること、それは本当に夢なのか、もしかすると、現実ではないのか」
眠りと覚醒の狭間で、僕は毎朝、半ば夢の中でそう自問した。
そして、僕は毎日、癌の宣告を受けたのである。
しかし、つまりは、僕は自分が癌であるということを、本当の意味で、ただの一度も受け入れたことなどなかったのではないか。表面的には受け入れたつもりであった。そしてそれを乗り越えてきたつもりでもあった。しかし、そうではないということを、あの頃の朝の記憶が物語っている。
もう今の僕は、眠ることを、あの頃のように恐れてはいない。極度の疲労の末、考えることも夢見ることもできぬほど疲弊した精神状態で、毎夜倒れるように眠りにつくことがその原因なのだろうとは思う。しかしそれならばなおさら、僕は癌体験を受け入れそして乗り越えたのではなく、ただただ忘れているだけなのだということを、ある人の壮絶な死を通して思い知らされている。
死んだ患者から信頼を失っていた医師を、決して責めることはできないのだと思う。死を告げる医師の言葉を拒否する以外に、すぐそこに迫っている自分の死から逃れる方途はなかったのだということに思いを馳せれば、患者を説き伏せることの出来なかった医師に、むしろ感謝すべきなのかもしれない。というよりも、医師が神でも無い限り、旅立っていった彼は、どんな医師をも信頼することは無かったのではないか。それが、彼にとって安らかに死ぬことのできる唯一の方法だったのではないか、と、思うのである。
6月11日木曜日: 何を話していたのだろう
カテゴリ: 書斎で書くこと
深夜2時間の電話。何を語っても、すべては詮無いことなのに。
あなたは、自らの意識が薄れるような薬の投与を一切拒否している。どうやらあなたは、いまだ生き続けることができると信じているらしい。だが、内臓の機能など、今のあなたの生体に関する全てのデータは、生きていることが不思議という数値を示しています。今まで長く終末医療に携わってきた医師の経験から判断すれば、あなたの命は、あと数日、長くても一週間なのです。
きっと、間もなくあなたの元に、「生きることに対する言い知れぬ不快」が訪れることでしょう。
この末期の不快感に襲われた者は、どれほど強い意志の持ち主でも、そのあまりに耐え難き絶望の故に、殺してくれと懇願するようになるのです。その苦しみから逃れて死ぬ道は唯ひとつです。不快を認識するのは頭脳、その脳の働きを低下させる薬を、今すぐに、痛み止めの麻薬に混ぜて点滴する方法しかありません。
但し、この薬の人体に及ぼす影響には個人差があって、投与した瞬間に昏睡状態となることもあり得ます。そうなれば、愛する奥さまの声に、もう二度と答えることはできないでしょう。
確かに、今のあなたは、奥さまと至極普通に会話をしている。そんなあなたに、今のあなた自身の置かれた状況を理解しろというのは無理なことかもしれません。しかし、それでもあなたは、今すぐにも決断をしなければならないのです。なぜなら、あなたの全身に転移している癌細胞は、間もなくあなたの血管を圧迫し、あなたの肉体は、点滴の針からの液体の注入を、一切受けつけなくなることでしょう。そうなってしまえば、間近に迫る想像を絶する苦しみから逃れる道を、あなたは失うことになるのです。そしてあなたの奥さまは、もがき苦しみ、「殺してくれ」と叫びながら死んでゆくあなたを目の当たりにするでしょう。つまり、あなたが安らかな死を迎えるということは、あなた自身のためだけではないのです。
さあ、徐々に死なせてくれる薬の投与を受け入れるのかどうか、その判断を奥さまにさせないためにも、今この時、あなた自身がその決断をすることが、夫としての最期のやるべき仕事なのではないでしょうか……
深夜の、2時間の電話。何度も何度も、堂々巡りの繰り返し。
僕は、あの時に嘘を語り、そして今また、嘘を書いている。
残された者は、自ら構築した嘘を頼りに、生き続けるしかないのである。
半年という、長いインターバルの後に。
あなたは、自らの意識が薄れるような薬の投与を一切拒否している。どうやらあなたは、いまだ生き続けることができると信じているらしい。だが、内臓の機能など、今のあなたの生体に関する全てのデータは、生きていることが不思議という数値を示しています。今まで長く終末医療に携わってきた医師の経験から判断すれば、あなたの命は、あと数日、長くても一週間なのです。
きっと、間もなくあなたの元に、「生きることに対する言い知れぬ不快」が訪れることでしょう。
この末期の不快感に襲われた者は、どれほど強い意志の持ち主でも、そのあまりに耐え難き絶望の故に、殺してくれと懇願するようになるのです。その苦しみから逃れて死ぬ道は唯ひとつです。不快を認識するのは頭脳、その脳の働きを低下させる薬を、今すぐに、痛み止めの麻薬に混ぜて点滴する方法しかありません。
但し、この薬の人体に及ぼす影響には個人差があって、投与した瞬間に昏睡状態となることもあり得ます。そうなれば、愛する奥さまの声に、もう二度と答えることはできないでしょう。
確かに、今のあなたは、奥さまと至極普通に会話をしている。そんなあなたに、今のあなた自身の置かれた状況を理解しろというのは無理なことかもしれません。しかし、それでもあなたは、今すぐにも決断をしなければならないのです。なぜなら、あなたの全身に転移している癌細胞は、間もなくあなたの血管を圧迫し、あなたの肉体は、点滴の針からの液体の注入を、一切受けつけなくなることでしょう。そうなってしまえば、間近に迫る想像を絶する苦しみから逃れる道を、あなたは失うことになるのです。そしてあなたの奥さまは、もがき苦しみ、「殺してくれ」と叫びながら死んでゆくあなたを目の当たりにするでしょう。つまり、あなたが安らかな死を迎えるということは、あなた自身のためだけではないのです。
さあ、徐々に死なせてくれる薬の投与を受け入れるのかどうか、その判断を奥さまにさせないためにも、今この時、あなた自身がその決断をすることが、夫としての最期のやるべき仕事なのではないでしょうか……
深夜の、2時間の電話。何度も何度も、堂々巡りの繰り返し。
僕は、あの時に嘘を語り、そして今また、嘘を書いている。
残された者は、自ら構築した嘘を頼りに、生き続けるしかないのである。
半年という、長いインターバルの後に。
6月 2日火曜日: 逃れられない理由を確認してみる
カテゴリ: 書斎で書くこと
今、僕は逃れたい。
逃れたいと思い始めた頃のノートのいくつかを、明日からここに転記する。
逃れたいもの、逃れられない理由を、あらためて確認してみるために。
逃れたいと思い始めた頃のノートのいくつかを、明日からここに転記する。
逃れたいもの、逃れられない理由を、あらためて確認してみるために。