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8月18日火曜日: 生物多様性と自然淘汰

カテゴリ: 書斎で書くこと
生物多様性なることばを、最近よく聞く。だが、決して新しい話ではない。

岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。

最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。

だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。

種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。

実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。

受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。

人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。

自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。


8月 8日土曜日: 本質を見る無垢な目

カテゴリ: 書斎で書くこと
ある写真家の技量がどれほどなのか、写真家がこの現代において生み出す作品が価値あるものなのかどうか、門外漢にとやかく言えることは何もない。だが、作品の伝えるものが、被写体よりもむしろ作者自身であるとするなら、どれほど優れた批評家が発した論評でも、それが正しく被写体を捉えていないという批判であるなら、それは僕にとって、つまらぬ言いがかりに聞こえるのみだ。

しかし、被写体が極めて現代的な問題を抱えている場合、写真というものが文字通りあたかも真実を伝えているかのような錯覚を与えるが故にこそ、当事者たちは写真の嘘を糾弾する。

美しい海を撮る。その写真の端に、汚い生ゴミが写った。それを切り取るかどうか。
およそ稚拙な設問だが、僕はそれを、意識的なトリミングの作業を思い浮かべて問うているわけではない。

ある無垢な写真家が、ただただ美しいと感じた自らの心を素直に表現したいと、写りこんだゴミを何の躊躇もなく切り取った。写真家には、はじめからゴミなど見えていなかった。なぜならこの写真家にとって、生ゴミの山は、この海の本質的な美しさとは無関係な存在であったからだ。写真家に嘘はない。むしろピュアな目を持っていただけだ。こうして仕上がった写真は、この海の本質である「この上ない美しさ」を伝える稀有な作品となった。
だが……。

「お前の写真は、あの海の現実の姿を捉えてはいない」
「私は、私の大好きな海を、ただ見つめていただけなのです」

この海に癒されるという若者たちがいる。
もっとこの海の歴史を学べと男が言う。そして、海に癒されるお前たちが嫌いだと、平然と言い放つ。

「生ゴミを捨てたのは、この海で仕事をするあなたの父親ではないですか」
男はそれに対して、憎しみを込めてこう答えた。
「親父がゴミを捨てたのは、お前たちの所為だ」
「私たちと、あなたの違いは、いったい何なのですか」
「歴史を学べ」

僕は、男に対する嫌悪感がこれ以上膨れていくのを恐れて、「好きなものは見つめることしかできないという良心」の側に寄り添っていくのである。何かが、取り返しがつかないほどに萎えていくのを感じながら。