1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。

僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。

ただ、捨てずに残したものがあった。

レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。

身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。

大袈裟な話しだ。

ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。

少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。

至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。

分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。

君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。

「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。

その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。





《統一の意志、草稿・メモ》
人間のあらゆる営みをその背後で規定しているものは様々な欲求であり、さらにそれらの欲求の根元を辿ればそこには臓器的欲求が存する。これらの欲求は物質の直截的な精神である。この基本的なレベルに於いて全ての欲求(精神)は同等である。しかしこの表現は心理学主義的な独断に陥っていて極めて不満足である。従って『統一の意志』の冒頭は次のように始められなければならない。
〈物質から精神が生まれ、そしてそれは混沌である。〉
一個の有機体(人間)はその混沌を支配し統一する力を必要とする。それが〈統一の意志〉である。様々な欲求は〈統一の意志〉によって、場合に応じて、ある時は単純にまたある時は複雑に結合せられ、それによって〈統一の意志〉にとってのさらに高度な「欲求」が形成される。この〈統一の意志〉による営みは、基本的・身体的・臓器的欲求の結合から純精神的「欲求」の形成に至るまで、全ての段階を支配する。だがそれは基本的欲求とあらゆる「欲求」との連続を意味するものではなく、むしろ〈統一の意志〉によって分断されている。換言すれば、〈統一の意志〉の存在こそが各段階の欲求の非連続を可能にしている。それによって人間は原因―結果の連鎖から開放され、身体的欲求に直接影響されない知的営為が可能となる。しかしその非連続は〈統一の意志〉の自己欺瞞でもある。その欺瞞性を自覚する事は、主体にとって時に極めて危険である。だが同時に、それこそが普遍的統一への端緒である。各身体器官は、それぞれ生理としての「欲求」を持つ。この第一の「レベル」においては〈統一の意志〉は生命を維持するためにそれらの「欲求」を支配している。同等であるふたつの「身体的欲求」のうち一方を実現し一方を抑圧する作業は、生命を維持するという〈正当な理由〉によって差別化されて始めて可能となる。全ての「レベル」において、採用される〈正当な理由〉は各々違ってもその「手続き」は共通である。「欲求」は〈正当な理由〉を〈統一の意志〉によって提示されることによってのみ抑圧されることを甘受するのである。その意味において、全ての「欲求」は〈正当な理由〉を受け入れるだけの「知性」を期待されている。「生命の維持」は有機体にとっての重要な理念である。が同時に「生命を維持したい」という「欲求」の変形形態でもある。「身体的欲求」とそれを区別するものは「レベル」のみである。「生命の維持」という〈理念〉も、さらに「高度のレベル」の〈正当な理由=理念〉によって抑圧されることもあり得る。その時「生命の維持」は単なる「欲求」とみなされるであろう。また、ひとつの「欲求」を抑圧するための〈正当な理由〉が「絶対的に高いレベル」である必要はない。抑圧する「欲求」に比して「相対的に高いレベル」であれば十分である。〈正当な理由〉がいかに「絶対的に低いレベル」の「欲求」であっても、その局面においてそれはひとつの「理念」である。つまり〈理念〉もまた「欲求」である。正確に言えば、場合に応じて適切と思われる何らかの「欲求」を〈統一の意志〉は〈理念〉として採用するのである。あらゆる「欲求」を本質的に区別するものは「レベル」のみであるが、しかしその「レベル」を決定する絶対的な物差しが先天的に存在するわけではない。〈統一の意志〉は、その場に応じて目前の課題を解決するためにのみ短い物差しを必要とし、そして都合のいい物差しを自ら探し出し、あるいは任意に作り出すのである。しかしそうして創造された物差しは取り敢えずは捨てられることなく記憶される。重ねられる様々な経験は物差しの数を増やし、あるいは二つの物差しを繋くことでより長い物差しを獲得していく。必要ならば一度獲得した物差しも解体される。それは極めて困難な作業ではあるが可能である。そのようにして最終的にいかなる物差しが形成されるか、「身体的欲求」から「哲学的理念」までの一貫した一本の物差しとなるか、あるいは何本もの短い物差しの並存か、それこそは各々の〈統一の意志〉に委ねられているものである。
〈統一の意志〉は実際に対立が起きない限りその二つの「欲求」を測る物差しを切実に必要とはしないのであるから、論理的に全く相反する「欲求」も時間を隔てていればその両立は容易に可能である。逆に、別の「欲求」が同時に存在した場合には、たとえそれがひとつの行為によって両方とも満足され得る「欲求」だとしても、〈統一の意志〉にとっては対立である。この時も〈統一の意志〉は「欲求A」と「欲求B」を結合させ「欲求A+B」を作り出すことによって初めて「行為C」を実現する。「欲求A+B」は「欲求A」や「欲求B」に比して、その複雑さ、内容の豊かさにおいて「高いレベル」にある。〈統一の意志〉は「欲求A」「欲求B」から「欲求C(A+B)」に至る極短い物差しを作り出したのである。両立不可能な対立は常に「欲求A」対「欲求B」という二者択一の形であらわれるが、しかし〈統一の意志〉によるその解決は「Aを実現しBを抑圧する」あるいは「Aを抑圧しBを実現する」という単純な二者択一で常になされる訳ではない。原初的欲求でない限り「欲求」は既に「欲求」の複合体である。「欲求A」は「欲求a+b+c」であり、また「欲求B」も「欲求x+y+z」である。従って〈統一の意志〉は対立するAとBのどちらかを丸ごと実現しまた抑圧することによってのみその葛藤を処理する必要は無い。例えば「欲求a,欲求b,欲求x,欲求y」を「欲求C」として実現し「欲求c,欲求z」を抑圧するというようなことによってこの対立を解決することも可能である。ここで重要なことは、〈統一の意志〉は複合された「欲求」をいつでも解体する能力を持つということである。「欲求A」と「欲求B」の対立の解決のために〈統一の意志〉は常に別の〈正当な理由=理念C〉を必要とする訳ではない。両立し得る対立の場合の殆どがそうである。また両立し得ない対立の場合であっても、〈統一の意志〉が認めれば、一方の〈実現される欲求(例えばA)〉そのものが〈正当な理由〉として採用されもう一方の〈抑圧される欲求(例えばB)〉に対して提示される。しかしそうして理念となった「欲求」はもはやもとの「欲求A」ではない。「欲求A」は「理念A′」となったのである。「A′」=「A+非B」である。「非B」は「零」であるから量的には「A′」=「A」であるが、内容においては「A′」は「A」よりも豊かなのである。つまり〈統一の意志〉は、〈分解と結合〉と〈採用と抑圧〉によって、対立する「欲求」の総体の範囲を逸脱することなく、新たな〈理念〉を生み出す能力を持っている。〈統一の意志〉が〈欲求の対立〉を解決しようとする時、まず試みるのがこの方法である。それが不可能である時、始めて〈統一の意志〉は、対立している〈欲求〉を援用しない別の〈理念〉を必要とするのである。
(続く原稿は数十枚に及び、またそれ以降の草稿のため、十数枚の構想メモがある。)