09/01/19 : ある旧友への、去年の9月の書簡(3)
カテゴリ: 書斎で書くこと
本当に客観的な眼を持ったら自殺するしかない。
程度問題だけどね、きっと幸せに生きるためには、中途半端に客観的な眼を持つこと。つまり、見る必要のないことは見ないこと。
末期の眼を持つと、ちっぽけな日本人は死ぬしかなくなる。川端康成や芥川のように。
タフな西洋人に僕は憧れる。ドストエフスキーは狂うまで自殺なんかしなかった。日本人には狂気におそわれるほどまで自分を追い込む冷徹さはないのです。西洋には最後まで見つめ続けて自らの精神を破綻させてしまった芸術家がたくさんいるが、日本の芸術家は最後のところで真実を凝視することに耐えられなくなって、狂う前に自ら命を絶ってしまうのです。メデューサに見つめられることを怖れて目を閉じてしまうのです。
メデューサとは、きっと鏡に映った自分の真実の姿なのだ。
あなたは、今の僕がわき目も振らずに突っ走っているように見えるのかもしれないが、僕としては、「わき目も振らず」という状態とは正反対な状態に自分を追い込んでいるのだと思っています。
僕の、「社長とは呼ばないで」というブログらしきものは、少しばかり客観的な眼を持ち過ぎてしまったために、分裂してしまった男の遺書なのです。と言っても、人は、僕が死んでみせるまで、これが遺書だとは信じてくれないだろうけれどね。
程度問題だけどね、きっと幸せに生きるためには、中途半端に客観的な眼を持つこと。つまり、見る必要のないことは見ないこと。
末期の眼を持つと、ちっぽけな日本人は死ぬしかなくなる。川端康成や芥川のように。
タフな西洋人に僕は憧れる。ドストエフスキーは狂うまで自殺なんかしなかった。日本人には狂気におそわれるほどまで自分を追い込む冷徹さはないのです。西洋には最後まで見つめ続けて自らの精神を破綻させてしまった芸術家がたくさんいるが、日本の芸術家は最後のところで真実を凝視することに耐えられなくなって、狂う前に自ら命を絶ってしまうのです。メデューサに見つめられることを怖れて目を閉じてしまうのです。
メデューサとは、きっと鏡に映った自分の真実の姿なのだ。
あなたは、今の僕がわき目も振らずに突っ走っているように見えるのかもしれないが、僕としては、「わき目も振らず」という状態とは正反対な状態に自分を追い込んでいるのだと思っています。
僕の、「社長とは呼ばないで」というブログらしきものは、少しばかり客観的な眼を持ち過ぎてしまったために、分裂してしまった男の遺書なのです。と言っても、人は、僕が死んでみせるまで、これが遺書だとは信じてくれないだろうけれどね。