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カテゴリ: 書斎で書くこと
切った爪がどこかへ飛んでいって、それがいくら探しても見つからない。
ままよ、忘れちまえと思うのだが、やっぱりなんだか気になって、読んでる本の内容が、ちっとも頭に入ってこない・・・
と、たった今のことを書いてみる。
書く? 書いちゃいない。キーボードを打つ行為のことを、どういうふうに表現すればいいのだろう。

きっと、世の中の多くのブログは、こんな風に自らのちっちゃな神経症をネタにして、そこから始まる連想ゲームで、それっぽい雰囲気を醸し出していくらしい。

まるで、自分はそうじゃないと言いたげだ。やめておこう。

こうやって、行を開けるのも、なんとも気持ちが悪い。

30年前の高校の出来事について、ちょいと仕事の合間にちょこちょこやっつけた。4回目を仕上げて読み返したら、1・2回目と3・4回目の文体がすっかり違っていたので、ありゃりゃと思って、さっさと直してほったらかした。いまさっき、また改めて読んでみたのだが、直したとこ直さないとこ、なんだかめちゃくちゃになっていた。こんなことなら直さなきゃよかったとブツブツひとりごちしながらまたいじくったのだが、いっぺん崩れた文章は、ちっとやそっとじゃ整わない。こいつは、切った爪が見つからないより、はるかに始末が悪い。
しかし、時間が無いから、ままよ、である。

M.A.P.after5の7月16日の記事について。なんでそれが7月1日に書けるのか、要するにそのくらい嘘っぱちのブログだということなのだ・・・
それでも、どうしても今日、書きたいことがある。
M.A.P.after5の7月16日の記事について。
昨日まで、無味乾燥だったM.A.P.after5情報、それもまた仕組まれたブログなのだが、それがあのたった1枚の写真で、すっかり雰囲気が変わってしまったのだ。又吉健次郎おじいの姿。実は、あの方は大変な人なのだが、今はそんなこと語らない。そんなことではなくて、たった1枚のスナップのこと、健次郎おじいの、あの暖かい存在感は、いったい何なのだろう。
過去だ未来だ、嘘だまことだと、様々な手練手管を使って、虚飾の巨大な宇宙を創造するのだという企て、いや本当にそんなことできると思っているわけじゃないが、少なくとも、そのようにしか人間は生きられないのだという理屈を、あっさりと飛び越えて、健次郎おじいは、確かにそこにいる。哲学的な言葉を、敢えてやけくそで使ってしまうなら、健次郎おじいは、即自存在として、揺るぎなく「ある」のだ。大きいというのではない。決して迫ってはこない。誰でも快く受け入れてくれるであろうことを誰も疑わない、いわば、人間として、あるべくしてそこにある、という「生き方」。

ここなのだ。ここに、「沖縄」という「罠」がある。

だが、今日はこれ以上語るまい。今日の、この僕の感覚も、ひとつの神経症なのかもしれない。この雰囲気に心地よく流されていくことを、僕は今のところ、やはり断固拒否をしておく。
とはいうものの、たった一枚のスナップの、又吉健次郎おじいは、やはりとてつもなく素敵で、今日の僕を、うれしくさせているのだ。そのことを今日、どうしても書いておきたかったのである。



カテゴリ: 社長のつぶやき
三太郎が言った。
「おかしいっすよ。会社のサイトのブログにこんなこと書くの。わっけわかんないもん。」
そんなきんきん声でわめくな。じゃあ、なんで俺の企みの片棒担ごうってんだ。三太郎は、ニヤニヤしている。

このホームページを、ちょこちょこいじってくれているチェロ弾きの大島君は、三太郎の突然の登場に戸惑った。
「なんだ、この三太郎ってのは。ま、いっか」
と、ご意見ご感想フォームなんかを、深夜、直してくれている。

ライバルはドストエフスキーの「作家の日記」。金芝河の大説「南」も忘れちゃいない。
また、わけのわからないマニアックなこと持ち出してかきまわす。
金芝河の大説「南」、もしお読みになりたい方がおありなら、「ご意見ご感想フォーム」にて御一報を。
その他の投稿もそちらからどうぞ。

わっけわかんねえ(三太郎)

三太郎、まず、君が投稿しなさい。俺がこんな乱暴な口調になったのは、お前さんが文体だなんだかんだと言い出したからだ。責任取りやがれ。

なお、社員たちは、わたくしのブログについて、
「申し訳ありませんが、さっぱりわかりません」
と、口をそろえて言っております。つまり、みんなまともでありますので、どうか取引会社の皆様、くれぐれもご安心くださいますよう、お願い申し上げます。


6月13日金曜日: 13日の金曜日のcoffee break

カテゴリ: 書斎で書くこと
ちょっと脇道へ。

「ゴドーを待ちながら」は、大喝采のうちに幕を下ろした。作者サミュエル・ベケットは、苦々しく、こう言い捨てた。
「次は、もっと難解なものを書かなければ」

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カテゴリ: 書斎で書くこと
1983年以前のノートは破り捨てた。きっとその年の春のことだ。破り捨てた理由は憶えていない、しかし、その春は懐かしい。

僕は、ちょいと危なっかしいところにいた。今、埋め草に使っている1983年からのノートは、そこから立ち直って書いたものだ。

ただ、捨てずに残したものがあった。

レポート用紙に書き綴った、「統一の意思」と題した未完の哲学的草稿。
それこそが、危なっかしさを増長した元凶だったのか、それとも、救いの天使だったのか。書くことによって深みにはまっていったのか、書いたから逃れられたのか。

身体的原初的欲求からヘーゲルの「精神現象学」、そしてマルクスの「資本論」、果ては「第9」から「仏教」に至るまでを同列に思索する。なんとも壮大な構想である。
空腹を満たすことと祈ることが同じだというのではない。むしろその不連続性を証明することに躍起だった。何のためにか、食うことと祈ることを、ひとつの理念によって統一させることの苦悩と、そしてその希望を語るために。

大袈裟な話しだ。

ただ、今も僕は、その自前の世界観に、全ての現象を密かに当てはめて考えているふしがある。
CDを作ることも、このブログとやらで語ることも、「統一の意思」の不連続性の中にある。

少しばかり、分かり易す過ぎておもしろくない。

至るところで分裂している。
「社長」とやらの昼間の喧騒と夜の肩書なき沈黙。小説家の作品と役者の記憶、父親の役割と息子の中に見つけた過去の残像。会社と非会社的なるもの、芸術と非芸術的なるもの。
「やまと」と「おきなわ」。

分裂は内にある。日記で、内なる他者と出会う。あるいは、日記そのものが、内なる他者の「死」でもある。だがブログは、理念として初めから世界を他者としているものだから、内なる他者を見つめることを忘れる。あたかもブログの文章が、自分の「生」のかたちだと勘違いして世界と対決する。

君たちがインターネットという万華鏡で覗いている世界は、ほんとうは、虚ろなのだ。

「続きを読む」なんて機能がある。そう書いたら、現実に引き戻された感じがする。なんだか妙だ。「ブログ」と「統一の意思」とは、いったいどっちの方が「より確かなもの」なのか。

その「続きを読む」を使って、「統一の意思」の冒頭の一部を、虚ろな世界に向けて公開してみる。
全く残響のない洞窟に、僕の過去という「死」を葬るのである。



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6月 9日月曜日: 「語るな、かたち作れ」

カテゴリ: 書斎で書くこと
1983年の僕のノートには、次のような引用が書き込まれてありました。

埴谷雄高「死霊の序」より
 「もしこの宇宙の一切がそれ以上にもそれ以下にも拡がり得ぬ一つの言葉に結晶して、しかもその一語をきっぱりと叫び得たとしたら、そのマラルメ的願望がたとえ一瞬たりとも私に充たされ得たとしたら、こんなだらだらと長い作品など徒らに書きつづらなくとも済むだろう。私はひたすらその一語のみを求める。」

1989年、僕は再度この文章について、ノートに書き残しました。

6年前のボクは、この〈内容〉だけが問題だった。しかし今読み返して気にかかるのは、むしろその前後の文章の〈姿〉なのだ。
《前》「そこから宇宙の涯へまで拡がるほどの優れた発想は深い感動からのみ起こることを私は知っている。水面に落ちた一つの石が次第に拡がりゆく無数の輪を描き出す音楽的な美しさを私は知っている。にもかかわらず」……
《後》「けれども、恐らくその出発点が間違っている私には、その一つの言葉、その一つの宇宙的結晶体はつねに髪一筋向うに逃げゆく影である。」

「死霊」の晩年に書かれた部分は、緊迫感が薄いという評判もあります。最後のほうの苦労は、いかに小説的に面白くするかだったというようなことを、埴谷雄高自身が語っていたという話も聞きます。
ゲーテは、世の芸術家に向けて、「語るな、かたち作れ」と言いました。

「鋭利な解剖刀のような普遍的法則が、それさえあれば、この拷問的の荒縄を涙が出る程切りとばしてばらばらにしてやるのに」梶井基次郎

この一文で、梶井基次郎は、語ったのでしょうか、それとも形づくったのでしょうか。

ある筋のお方のリクエストにお答えして、再度アルトーに登場してもらいましょう。

「哲学的闘争の後に形づくられる一つの無軌道……二重の仕事」

続きまして、もしかして、こんなのもお好きかしらん?

 近代主義の雑誌『南―北(ノール・シュド)』(1917年3月創刊、パリ)1918年3月号、編集者ピエール・ルヴェルディのエッセーの一節。ブルトン一派のシュルレアリスム方法論の確立に有力な示唆を与える。
 「イメージは、精神の純粋な創造物であり、それは比較から生まれるものでなく、多少とも相離れたふたつの現実の接触から生れる。この接触するふたつの現実の相互関係が、相離れておればおるほど、しかもそれが正当であればあるほどイメージは強烈なものになる。つまり、いっそう感動的な力と、詩的な現実をもつものとなろう。」

いったい僕は、何を書きたいのでしょう。連載漫画。いたって冴えないオチです。ドラフト保存のまんまにしておきゃよかった。
明日は、すっかり過去に逃げ込もう。

「死霊」 amazonへ続く・・・

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