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6月20日土曜日: 乗り越えてはいない

カテゴリ: 書斎で書くこと
眠りにつくことが怖かった。それは、悪夢を恐れたからではない。

あの頃、僕は夢の中で、いつも死から目を背けていた。夢こそが現実であると、夢の中の僕は信じていた。しかし、夢の中の僕が死から全く自由であったというわけではない。夢の中で、夢の中の現実を生きながら、僕は「死」の夢を見ていたのだ。癌に犯されているという夢、夢の中で見る夢。だがそれが夢である限りやがて消え去る。だから夢の中で、僕は救われていたのだ。しかし、眠りの数だけ、目覚めなければならぬ朝が来る。

僕の朝は、「自分が癌に犯されているというのは夢だったのだ」という朦朧とした安堵ととも始まる。その時、僕は、まだ夢の領域にいた。夢と現実の逆転した領域。しかし、その後に続く短い時間こそ、真の悪夢であった。
「自分が癌に犯されていること、それは本当に夢なのか、もしかすると、現実ではないのか」
眠りと覚醒の狭間で、僕は毎朝、半ば夢の中でそう自問した。

そして、僕は毎日、癌の宣告を受けたのである。

しかし、つまりは、僕は自分が癌であるということを、本当の意味で、ただの一度も受け入れたことなどなかったのではないか。表面的には受け入れたつもりであった。そしてそれを乗り越えてきたつもりでもあった。しかし、そうではないということを、あの頃の朝の記憶が物語っている。

もう今の僕は、眠ることを、あの頃のように恐れてはいない。極度の疲労の末、考えることも夢見ることもできぬほど疲弊した精神状態で、毎夜倒れるように眠りにつくことがその原因なのだろうとは思う。しかしそれならばなおさら、僕は癌体験を受け入れそして乗り越えたのではなく、ただただ忘れているだけなのだということを、ある人の壮絶な死を通して思い知らされている。

死んだ患者から信頼を失っていた医師を、決して責めることはできないのだと思う。死を告げる医師の言葉を拒否する以外に、すぐそこに迫っている自分の死から逃れる方途はなかったのだということに思いを馳せれば、患者を説き伏せることの出来なかった医師に、むしろ感謝すべきなのかもしれない。というよりも、医師が神でも無い限り、旅立っていった彼は、どんな医師をも信頼することは無かったのではないか。それが、彼にとって安らかに死ぬことのできる唯一の方法だったのではないか、と、思うのである。


カテゴリ: 沖縄の、こと
ちょうど一ヶ月前の朝日新聞に掲載された記事。
仲村清司はゴーヤーについてこう語っていた。
「貧乏な沖縄、差別される沖縄の象徴、大嫌いだった」。
やがてウチナーンチュになりたくてがむしゃらに食べた。今は週に2、3回食べるが、特別な感慨はもうないと。

5年前、比嘉豊光が「赤いゴーヤー」なる写真集を出版した際、彼は琉球新報のインタビューに答えた。
「僕は6月ごろから毎日、おやじの畑で収穫したゴーヤーを食べているが、時々熟れた赤いゴーヤーが見つかる。これ、食べると甘いんだよ。そのことをウチナーンチュもヤマトゥンチュもあまり知らない。新たなものを生むサニ(種子)。それを包む熟んだ赤いゴーヤーの果肉とその甘さ。そういう本質にこだわることが、本来の文化ではないか」
沖縄県が公募したゴーヤーの新種の名前が、「島風」に決まった。名付けたのは大和の人であった。
70年代に大和のカメラマンが沖縄を撮りに来た時と同じだと、比嘉豊光は思った。沖縄のものの全てが大和のものになってしまう。政治的にも文化的にも、沖縄は大和に取り込まれていく。しかし、「赤いゴーヤー」までは奪われることはないだろう。わずかな残り物をしっかり見て、守っていかなければならないのではないか。

ならば、こんなブログのような場所で、「赤いゴーヤー」についてヤマトゥンチュの僕が語ってしまうことは、比嘉豊光にとって、許し難き行為なのだろうか。

今月の3日の琉球新報の記事。“撮らされた「時代の傷」”においても、比嘉豊光は語る。
沖縄という場が持つ力を作品化する時、「東京に売るための作品」なのか、「沖縄を取り戻すための作品」なのかが問われることになると。

だが、僕にはこの対立の実体が見えてこないのだ。「売るための作品」と「取り戻すための作品」とを、ことさら対立させることにどんな意味があるのだろう。そこに見えるものは、比嘉豊光の怨念のようなもの。例えば小説家の目取真俊は、「水滴」を発表することによって、沖縄を売ったのか、それとも取り戻したのか。

佐喜眞美術館で比嘉豊光の写真展が開催されていた。その関連シンポジウム“「赤いゴーヤー」からいま・沖縄を視る”に参加した。比嘉豊光と、大和の大御所である写真家、東松照明の対談。
新聞のコラムは、こう書いた。
「『沖縄でも長崎でも写真を撮ることに変わりはない』と語る東松さんに対し、(比嘉豊光さんは)『自分は沖縄の歴史性、場所性を問いながら写真を撮っている。今の東松さんには沖縄が撮れていないと反発。互いの創作姿勢の違いを際だたせていた」

さて、はたしてそうだったのだろうか。実際には、東松照明は次のように語ったと記憶している。
「僕は好きなものを撮っているだけだ。それが今、沖縄と長崎だということだ。」
「好きなものを撮るとは、好きな人にカメラを向けることと同じ。カメラがなければ、好きな人を長く見ていることなどできはしない。しかし、カメラのファインダーを通せば、写真を撮るということを口実にして、いつまでも好きな人を見つめていることが出来る」
確かに、比嘉豊光氏は苛立っていたのかもしれない。沖縄は三十数年前と何も変わっていない。なぜそれを認めて、その現実を切り取って撮ろうとしないのかと。
それは「創作姿勢の違い」などというものではなかった。

4月19日の琉球新報に、東松照明の興味深いインタビュー記事があった。
「作品の選択は年月とともに変わっていく。たとえば三十年前に一人の人物を撮ったとする。アップ、ミディアム、フルショットのコマがあるとき、撮影直後に選んだのはアップ系が多い。最初は、臨場感を重視する。それが十年後にはミディアムショットになり、だんだん引いていく。周りには車があったり、家並みがあったり、引いていくと、情報量が多くなる。その後、全身が写ったフルショットになる」

「際立っていたもの」とは、年齢とともに達観し、物事を俯瞰することが許されている大和の芸術家と、いつまでも生々しい具体の細部に拘らずを得ない苦悩する沖縄の写真家の、互いに逃れがたい「あり方」ではなかったのか。
しかしながら東松照明も、彼の撮影する遠景の中に、きっと赤き比嘉豊光の姿を、はっきりと捉えているに違いない。


6月11日木曜日: 何を話していたのだろう

カテゴリ: 書斎で書くこと
深夜2時間の電話。何を語っても、すべては詮無いことなのに。

あなたは、自らの意識が薄れるような薬の投与を一切拒否している。どうやらあなたは、いまだ生き続けることができると信じているらしい。だが、内臓の機能など、今のあなたの生体に関する全てのデータは、生きていることが不思議という数値を示しています。今まで長く終末医療に携わってきた医師の経験から判断すれば、あなたの命は、あと数日、長くても一週間なのです。
きっと、間もなくあなたの元に、「生きることに対する言い知れぬ不快」が訪れることでしょう。
この末期の不快感に襲われた者は、どれほど強い意志の持ち主でも、そのあまりに耐え難き絶望の故に、殺してくれと懇願するようになるのです。その苦しみから逃れて死ぬ道は唯ひとつです。不快を認識するのは頭脳、その脳の働きを低下させる薬を、今すぐに、痛み止めの麻薬に混ぜて点滴する方法しかありません。
但し、この薬の人体に及ぼす影響には個人差があって、投与した瞬間に昏睡状態となることもあり得ます。そうなれば、愛する奥さまの声に、もう二度と答えることはできないでしょう。
確かに、今のあなたは、奥さまと至極普通に会話をしている。そんなあなたに、今のあなた自身の置かれた状況を理解しろというのは無理なことかもしれません。しかし、それでもあなたは、今すぐにも決断をしなければならないのです。なぜなら、あなたの全身に転移している癌細胞は、間もなくあなたの血管を圧迫し、あなたの肉体は、点滴の針からの液体の注入を、一切受けつけなくなることでしょう。そうなってしまえば、間近に迫る想像を絶する苦しみから逃れる道を、あなたは失うことになるのです。そしてあなたの奥さまは、もがき苦しみ、「殺してくれ」と叫びながら死んでゆくあなたを目の当たりにするでしょう。つまり、あなたが安らかな死を迎えるということは、あなた自身のためだけではないのです。
さあ、徐々に死なせてくれる薬の投与を受け入れるのかどうか、その判断を奥さまにさせないためにも、今この時、あなた自身がその決断をすることが、夫としての最期のやるべき仕事なのではないでしょうか……

深夜の、2時間の電話。何度も何度も、堂々巡りの繰り返し。

僕は、あの時に嘘を語り、そして今また、嘘を書いている。
残された者は、自ら構築した嘘を頼りに、生き続けるしかないのである。
半年という、長いインターバルの後に。

カテゴリ: 書斎で書くこと
今、僕は逃れたい。
逃れたいと思い始めた頃のノートのいくつかを、明日からここに転記する。

逃れたいもの、逃れられない理由を、あらためて確認してみるために。


カテゴリ: 社長のつぶやき
言うべきことは言う。99人の馴れ合いが、どれほど無垢なものであろうとも、断固として最期の一人になる、表現者であるなら至極当たり前であると思われるこのことが、実際の場では全く不可能事となる。その現実もやっぱり当たり前だというのだからやりきれない。
そもそも表現者として言うべきこととはいったい何なのか。何をもって「べき」などと言えるのか。僕のこれほどまでの腹立たしさくを分析してみれば、その「何をもって」という根本の自覚なしに、浅薄な思索で、あたかも「べき」であるかのように偉そうに論じる者どもに対して、物申す「べき」だといきり立っているということらしいのだ。
宙に浮いた螺旋階段を昇り降りしているうちに、はじめの軽い眩暈も、いつしか僕を頭上の雲へ叩き落すに十分な幻覚を生むに違いない。それがわかっているのに、眼前の小生意気な鼠どもを、完膚なきまでに叩き潰さなければ、どうにも腹の虫が収まらない。この生来の性質を押さえ込むためには、分裂するという処世術が必要なのだと思い始めたのはいつの頃だったろうか。それでもやはり腹の虫のざわめきはいっこうにおさまらない。

そう書いてからもう4ヶ月も経ってしまった。要するにこの文章は9月に書き加えているペテン。それから、さまざまな局面で同じ思いが沸き起こる。少しあほらしくなって熱が冷めた。だから、書きかけの文句はこのままほったらかしておく。そして今の本当の思いは、4ヶ月後の日付で書く。

かまうものか。これは日本版の“大説『南』”なのだ。暗い書斎の万年床に膝を抱えて座り込み、じっと目を閉じて、ひたすらに時の流れを眺めている。すると、間断なく続く耳鳴りは、未来から過去へ、一瞬間一瞬間に大量の時間が、ひとつの便宜上の境界を静かに静かに越えていこうとする響きであったことに気づくのだ。
もはや何が先で、どちらが北なのか、それにどんな意味があるというのか。君は僕なのか。俺がお前なのか。読むものの目を眩ませて、その耳に幻聴を与えることができれば、きっとそれだけが、今の望みなのだと信じることさえできたなら、腹の虫を親指の腹で押しつぶし、緑の体液が、伸ばした爪に飛び散った……。

もっともっと乱れた言葉をならべなければならないのに、50年間堆積した詰まらぬルールが、それを妨げている。

「わからない」

そういうお前は切って捨てる。俺の人生は、きっと刹那ほどには長くはないのだ。お前の時間という概念に付き合っている寛容さは、俺にはない。愛してくれる必要はない。理解も不要だ。ただ理解しようとしてくれるだけで十分なのだが、愛がなければ理解などありえないという至極当たり前という名の螺旋階段。

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