7月15日火曜日: ひらがなのかくめい
カテゴリ: 書斎で書くこと
太宰治「かくめい」の全文。
「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からのかくめいが、いつまでも、できないのです。」
ところどころ漢字である。よく眺めれば眺めるほど、この使い分けが完璧に見えてくる。これ以外、他には考えられないと思えてくる。
石川啄木に「ローマ字日記」というものがある。内容が内容だけに、ローマ字を使って書いた啄木の意図は別のところにあったのだろうが、結果的に、この日記はローマ字で読まれることによって、その「凄み」が増す。
ひらがなにも、同じようなことがいえる。ローマ字もひらがなも、それによって読者は一音一音粒立てて読むことを強いられ、否応なしに停滞させられるのである。読者は斜め読みすることができない。これは、英語では考えられないことなのかもしれない。
きっと、朗読にも、同じ効果がある。時間を支配するのは、読み手ではなく送り手側なのである。ただ、「ひらがな」や「ローマ字」は、その企みが隠されてあるから、読者は、この時間の流れの責任は、自分にあるのだと錯覚する。しかし、朗読は露骨だ。だから、時に、嫌われる。
(ここに、日本におけるオーディオブックのヒントがある。)
「詩」の隠喩にも、きっと、同じことがある。
ふたたび、だざいの「かくめい」。
僕は、だざいの「ひらがな」の「たくらみ」に、まんまと、ひっかかっている。
「こうしなければならぬ」と「おっしゃっている」「じぶん」とは、いったいだれのことなのか、そこに、ひっかかってしまっている。
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「じぶんで、したことは、そのように、はっきり言わなければ、かくめいも何も、おこなわれません。じぶんで、そうしても、他のおこないをしたく思って、にんげんは、こうしなければならぬ、などとおっしゃっているうちは、にんげんの底からのかくめいが、いつまでも、できないのです。」
ところどころ漢字である。よく眺めれば眺めるほど、この使い分けが完璧に見えてくる。これ以外、他には考えられないと思えてくる。
石川啄木に「ローマ字日記」というものがある。内容が内容だけに、ローマ字を使って書いた啄木の意図は別のところにあったのだろうが、結果的に、この日記はローマ字で読まれることによって、その「凄み」が増す。
ひらがなにも、同じようなことがいえる。ローマ字もひらがなも、それによって読者は一音一音粒立てて読むことを強いられ、否応なしに停滞させられるのである。読者は斜め読みすることができない。これは、英語では考えられないことなのかもしれない。
きっと、朗読にも、同じ効果がある。時間を支配するのは、読み手ではなく送り手側なのである。ただ、「ひらがな」や「ローマ字」は、その企みが隠されてあるから、読者は、この時間の流れの責任は、自分にあるのだと錯覚する。しかし、朗読は露骨だ。だから、時に、嫌われる。
(ここに、日本におけるオーディオブックのヒントがある。)
「詩」の隠喩にも、きっと、同じことがある。
ふたたび、だざいの「かくめい」。
僕は、だざいの「ひらがな」の「たくらみ」に、まんまと、ひっかかっている。
「こうしなければならぬ」と「おっしゃっている」「じぶん」とは、いったいだれのことなのか、そこに、ひっかかってしまっている。
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