今日、沖縄から戻ってきた。
「ほんとのこと」について考えている。

「ほんとうのことを言おうか」
誰かの詩の一節だったと記憶している。本当のことを言ったわけではない。「ほんとうのことを言おうか」と言ってみただけのことだ。それでも詩になる。ほんとうのことをほんとうに言ってしまえば、消えてなくなってしまうかもしれぬ恐怖。ほんとうのことを言うとは、それほどにも覚悟のいることらしい。

沖縄へ出発する前の日、ある朗読会を観に行った。
朗読を聞くことに全く興味などなかったが、オーディオブックなる事業を始めたので、最近時々耳にする「朗読会」というものを、後学のために覗いてみるのもいいだろうと考えたのである。

元来、書物は読んで聞かせるようには書かれていない。はたして、朗読する人は、そうした書物を朗読するということを、どのように考えているのだろう。その困難を乗り越えてなお朗読しようとする動機は何なのだろう。ただ朗読するという行為だけが見える。きっと、書物にはあるだろう「ほんとうのこと」が、僕の耳にはいっこうに届いてこない。

最後にパオ・ニンの「戦争の悲しみ」の抜粋が朗読された。東西のイデオロギーとは関係なく、初めてベトナム戦争の真実を描いた作品として、最近評判になった本である。しかし、その真実を歪めて翻訳したとか、いつもの左翼と保守の間に起こる喧噪に巻き込まれている本でもある。いずれにしろ、パオ・ニン氏にとっては迷惑な話だ。朗読者はそれを知っているのかどうか、私には関係ない、それを見せないのが朗読ですとスマシテいる。圧倒的に上等な朗読ならまだしも、できることなら読んで欲しくはなかった。あの朗読に感動したと思われたくないから、本を買うことをやめた。朗読そのものは、もう記憶にない。だが、その朗読に先駆けて、ゲストとして招かれた訳者が語った話だけは、今も頭に残っている。
「ベトナム戦争で使われた弾薬の数は、第二次世界大戦において全世界で使用された弾薬の2倍に当たる」
衝撃的な話である。ベトナムに撃ち込まれた弾薬の多くは、沖縄の基地を飛び立った戦闘機や爆撃機がベトナムの地に持ち込んだものである。沖縄への米軍の爆撃を、鉄の暴風などど形容するが、ベトナムの規模は、それと較べようも無い。ベトナムへの最前線の基地が、あの「鉄の暴風」を経験したこの沖縄にあった、そしてその基地が、今もって沖縄にあり続けているという事実、この人間の愚かしさを許している厚顔無恥な者は、いったいどこに隠れているのか。

例えば「ヒロシマ」を伝えるために、吉永小百合は、ノーギャラでも朗読会を開く。吉永小百合の朗読の技術は窺い知れぬが、それを云々する者はいないだろう。重要なのは「ヒロシマ」である。
一方、著作権切れの文学作品を読む朗読会なるものを開く人々は、伝えたい作品を読むのではなく、朗読するための素材を選んでいるように見える。彼らは、何を伝えたいのだろう。伝えたいものがない限り、切実に技術を磨こうとすることなどあり得ない。芸術至上主義などというが、それは政治的イデオロギー喧伝の手段としないというに過ぎぬ。ゴッホは自分の美的才能を披歴したかったのではない。ひまわりの狂気を、伝えたかったのである。ゴッホの才能は、ゴッホの手段である。

僕は、改めて沖縄をオーディオブックにすることに確信を得た。「沖縄」を伝えるためにこそ語る。だが安易に語っては、逆に人々を「沖縄」から遠ざける。だから、ほんとうのプロにならねばならないのである。

沖縄で考えた「ほんとうのこと」については、また後日。