«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 12 | 13 | 14 || Next»

11月 2日月曜日: 絶望的に粒子であった

カテゴリ: 沖縄の、こと
戒めを破ってみた。
そうして「辺野古への新基地建設と県内移設に反対する県民大会」について書いてみた。

しかし、つまらないのである。

戒めの破り方が中途半端だったからではない。戒めを破ったのにもかかわらず、何の反応もないからでもない。どこか絶望しているのである。
普天間が返ってきたとして、辺野古の海が守られたとして、それでいったいどうだというのか。グアムの人々のことを気にしているわけでもない。沖縄の一部の鼻持ちならない金持ちのことでもなく、やってくるであろうハイエナのような本土資本のことでもない。どこか、根源的に絶望しているのである。

僕の問題ではない。沖縄の問題なのだ、というふうに。

今日、僕の頭上に降り注いだ太陽光は、波ではなく、絶望的に粒子であった。


10月25日日曜日: どうせ誰も……

カテゴリ: 沖縄の、こと
表のブログでは書けない事を、何を勘違いしたのか、mixiとやらでちょっと書き綴っていた一時期があった。

あさやさんからメールが入った。
「幸喜さんから案内あったから、お前の切符も頼んでおいたぞ」
というありがたいメッセージ。早稲田の「人類館」のこと。 これで先着順の列に並ばなくて済む。でも誘った津嘉山さんはどうなのだろうと心配して青年座に電話したら、津嘉山さんにも主催者からご招待があったとのこと、そりゃそうだよなと安堵した。 でも、なんだかこういう特別待遇はとても申し訳ない思いがする。

結局、このことは少し煙に巻いて書き直した。その文章は、この「社長とは~」のどこかにある。

BOOMの「島唄」のこと。

でいごの花が咲き
嵐を呼び 嵐が来た

この歌詞の隠された意味。
「災厄を告げるというでいごの花が咲き、沖縄本島に米軍が上陸した」

また……

ウージぬ下で 千代にさよなら
「ガマの防空壕で君が代にいう永久の御代との別れ」

今思えば、このことをわざわざ表のブログでは書けないのでなどとワケの分からぬ注釈をつけてあんな場所で呟く意味があったのだろうか。これ見よがしのナイショ話ほどいやらしいものはない。

しばらく、mixi体験の自己批判で押してみようか。どうせ誰も読んじゃいない。

神奈川にだって、基地はあるのだが……
どうせ、誰も聞いちゃいない。


9月20日日曜日: 静粛に!静粛に!

カテゴリ: 沖縄の、こと
その登場は衝撃的であった。以来40年近く「作り上げられた自分」と向き合ってきた作家がいる。いや、そうではない。「作り上げられた自分」は、真実の自分を押しつぶすほど巨大であった。劇作家は、その自分と同じ名を持つ偶像と、やがて向き合うことを放棄してしまったというのが、本当のところなのかもしれない。

作品は歪められていった。作家自身が手を入れたとも聞いた。だが、僕は敢えて言う。作品は、作家の意志に反して歪められていったのだと。そして、僕もまたその片棒を担いだのである。

さらにその上、作家の深き思いを確信しながらも、知らぬ振りをして、彼だけのものではない神聖な言葉を、大和に対する武器であったはずの言葉を、インターネットの世界に「陳列」させて欲しいと、厚かましくも頼み込んだのである。

心優しき劇作家は、静かな諦念の微笑みとともに承諾してくれたのだが、その時、作家の胸に去来していた思いは、どんなものだったのだろう。

それだけではない。僕は、発表当時の台本を、神田の古書店で見つけたのだ。僕はその時、歪められる前の作品はこれなのだと、作家の真の思いはここにあるのだと、僕自身の責任で語らねばならなかったのではないか。それなのに僕は、そのト書きにあった美しき子守唄を紹介することでお茶を濁したのである。

僕の憂鬱を、きっと誰も知らない。

「戦時中、多くの朝鮮の女性たちが、看護婦として沖縄に来て、無理矢理売春婦にされたのを、わたしは目撃してきました。ゆえに天皇の●である島津●●や、皇太子の●、●●子も、天皇や皇太子の目の前で、米軍に強●……」
「静粛に!静粛に!」


8月21日金曜日: 全て冗談なのです

カテゴリ: 沖縄の、こと
昨日のことを、あさってあたり、あの人に聞いたはなし。

指をつめたのは二回くらいじゃないのかな。ふつうは左手だけどね、それじゃあ三線が弾けなくなるから、だから右手にしてもらった。
島にいるのが危うくなって、川崎あたりに身を隠したらしい。琉球人お断りみたいな張り紙が、あちこちの飲み屋に貼られていたころなのかもしれない。とんでもないはなしだということになっているけど、貼ったオヤジの気持ちもわからんじゃない。

花街で憶えた本物の三線。今では100人を越える弟子がいる。教育委員会から表彰されたというのだから、世の中わからないもんだ。わかってないのは役人か、きっとそうにちがいない。

インターネットでいくら調べたって出てきやしないさ。新聞はとっくにダメだが、ネットでならどんな情報でも得られるなんて勘違いするのもとんでもない話。
島の女は、ちょっとやそっとじゃ驚かない。顔も名前も知らない兄弟がいるなんて、普通のことだよね、ママ。あの知事だって、似たり寄ったり。
裏があるんですねだって? 何を目ん玉まん丸にしてるのさ。君の大好きなおかあさんは、きっと君に、ちゃんと正しいことだけを教えてきたんだね。とうさんは役人? 冗談さ、冗談。

あの人って、ママじゃないよ。全然違う人。違う人の冗談。
すべて、冗談さ。

8月18日火曜日: 生物多様性と自然淘汰

カテゴリ: 書斎で書くこと
生物多様性なることばを、最近よく聞く。だが、決して新しい話ではない。

岩波文庫でダーウィンの「種の起源」全3巻を読んだのは、もう30年前のこと、その中に「進化」という言葉は一度も出てこなかったと記憶している。論じられているのは、突然変異を契機とした多様化の長い歴史の分析である。

最近インターネットの世界で、多くの人が、「生物多様性」という流行の言葉を持ち出して環境問題を喧伝している。受け売りの意見。
ある種が絶滅すると生態系の安定が損なわれる、また生態系の複雑さの減少はその崩壊の方向と同義である、それはそういうことなのだろうが、しかし複雑な生態系が、全ての種を守る条件だと考えているとしたら、それは大きな勘違いである。ましてや、沖縄のサンゴを守るためにオニヒトデを駆除するのはおかしい、どちらも同じ命ではないか、などというコメントにいたっては笑止である。健康なサンゴの周辺は、極めて高い「生物多様性」が保たれている。「生物多様性」を守るなら、オニヒトデは適切に駆除されなければならないという当たり前のはなし。「生物多様性」から出発して「生物多様性」の本質から外れるというお粗末。

だがこの事例こそ、「生物多様性」を守ろうとすることが、極めてエゴイスティックなことであるという証明なのだ。
生物の種が多様化してきたのは、棲む場所の環境にそれぞれが適合するようその形を変えてきた結果に他ならない。そのために同種の中での固体差も必要であった。中でも突然変異した異形の存在こそトリックスターであった。この多様性は、外部環境の変化による全滅を防ぐためにも機能し、結果、より環境に適合できる固体のみを残し、適さない固体を選別する動的で差別的なシステムなのである。

種の多様性も同じような側面がある。全ての種が森林でしか生きられなかったら、地球の砂漠化は、地球上から全ての生命を消失させることを意味するが、砂漠でも生きることの出来る生命の存在が、地球の命を未来に繋ぐのである。

実は、人間だけが特殊なのである。人間はいかなる環境にも適合していない。寒冷地では服を着なければ生きられず、太陽の下に放置されれば、半日を待たずに意識を失うだろう。

受精して生まれる胎児は、初期においてはどんな動物でもほぼ同様の形で見分けがつかない。そのあと、それぞれの胎児は、種それぞれの太古からの「進化」のプロセスを準えるように変化していく。大概の哺乳類は、四足で歩くために、生まれるまでに首が後ろに曲がってくるのだが、人間の場合、首は背骨からまっすぐに伸びたままである。主な変化は尻尾を失うだけで、体毛も殆どなく、初期の胎児の形態を色濃く残し、極めて無防備な状態で生まれてくるのだ。さらにデスモンド・モリスによれば、人間は胎児のまま大人になる化け物なのである。つまり人間は、「多様化」から逸脱した、全く「進化」していない体を持った生物といえるのかもしれない。

人間ほど、たくさんの別の生命から助けを受けなければ生きることのできない動物はいない。もしかすると、「生物多様性」なるものを切実に必要としているのは、地球の全てを利用し尽くそうとしている人間だけなのではないか。しかし僕は、それでかまわないと思っている。「生物多様性」が、全ての生き物にとって必要なことだというような主張より、よほどマシだと思っている。
「生物多様性」と「自然淘汰」はセットである。自然に淘汰されない保障があれば、「生物多様性」は不要である。そうなれば、生命は自己同一性のみを追うことになるであろう。

自然は、人間という種が淘汰されることを恐れてなどいない。しかし人間は、人間という種の絶滅を切実に恐れるべきだと親となった僕は思う。そのために必要なら、オニヒトデはいうに及ばず、僕はジュゴンでも殺すだろう。


«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 12 | 13 | 14 || Next»