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7月 7日火曜日: 再び過去に逃亡せよ

カテゴリ: 沖縄の、こと
身分の違いによる言葉の豊かさ、そんないかがわしき風説を信じて疑わず、それこそも残す価値があるなどと勝手なことを言うから、他者は誰も振り向かなくなる。
マイノリティー? いったい何のことか、やがて理解する通路を閉ざす者たち。
どうであれ、下劣なナショナリズムに反吐が出る、という想念を想像することすら出来ない貧困な回路。

「ツンボ」「オシ」「メクラ」
お前の操る傲慢な秘密は、かつて狩られた言葉よりもずっと要らぬ記憶なのだ。

このところ僕は、あたかも分裂など無いかのように、先走って裏ばかり語っている。

わかっているよ。確かに先走っているのさ。どうやら脳細胞が痩せ細っていくところをみると、「死」の陰に脅かされているらしいのだ。その意味は、お前には決して分からないだろう。すると、青い血がひどく急いでいる。

もう一度、引き返せ。過去に逃亡せよ。そして他人事のように語るのだ。すると、お前は黙って騙されている。あたかも、永遠の生を得たかのように。

ソノドコガイケナイトイウノカ

カテゴリ: 沖縄の、こと
ヤマトの男たちよ
僕はお前たちに
この世界を満たしている後生からの風の声を
語って聞かせようと悶えている

お前たちはこの世界を知っているのか
せめても耳を傾けようとしたことがあるのか
この世界に置き去りにされた人々に思いを馳せてみよ

ウチナーの青年よ
君の島の
妻の痛みは、断じて僕の悲しみであり
僕の子どもたちの苦しみであり

それを疑うというのなら
僕は君と決別し
そして君を決して許すことはないだろう
君が永久にヤマトを許さぬように

いや違う
君が許さぬものはヤマトだが
僕が許さぬのはお前なのだ

握り締めた拳は、何も生み出さない
子どもたちが、お前の顔を、じっと見ている

6月17日水曜日: 怠惰な良心

カテゴリ: 社長のつぶやき
玉泉洞は、1967年、愛媛大学の調査によってその奥部が明らかになった。つまり、あの戦争において、壕として使われた悲惨な歴史はないのだと聞いたことがある。変だな。「奥部」?「つまり」? どうも論理的に繋がらない。
真偽は、つまり、分からない。

「あの会社は悪い会社です」……

おい、コメントはそれだけかい。

たとえどんなにもっともなワケがあろうとも、俺は君にそのワケを聞くことは金輪際しないだろう。もはや、いい会社か悪い会社かの問題ではない。君から公平な情報が得られるとはどうしても思えなくなった。
たくさんの雇用を生み出している。君が逃げ出した場所では、君の友達がいまだに働いている。そして、どこよりも活気に満ちている……。

それが一面でしかないということはよく分かっている。だが、それが一面の真実であることも確かなのだ。会社に、100%いい会社など、あるわけはないのである。

永続的に利益を生み出す責任を追った者たちに、地獄行きの判決を下した13人の陪審員の中には、数人の怠惰な良心も加わっていた。

カテゴリ: 沖縄の、こと
ちょうど一ヶ月前の朝日新聞に掲載された記事。
仲村清司はゴーヤーについてこう語っていた。
「貧乏な沖縄、差別される沖縄の象徴、大嫌いだった」。
やがてウチナーンチュになりたくてがむしゃらに食べた。今は週に2、3回食べるが、特別な感慨はもうないと。

5年前、比嘉豊光が「赤いゴーヤー」なる写真集を出版した際、彼は琉球新報のインタビューに答えた。
「僕は6月ごろから毎日、おやじの畑で収穫したゴーヤーを食べているが、時々熟れた赤いゴーヤーが見つかる。これ、食べると甘いんだよ。そのことをウチナーンチュもヤマトゥンチュもあまり知らない。新たなものを生むサニ(種子)。それを包む熟んだ赤いゴーヤーの果肉とその甘さ。そういう本質にこだわることが、本来の文化ではないか」
沖縄県が公募したゴーヤーの新種の名前が、「島風」に決まった。名付けたのは大和の人であった。
70年代に大和のカメラマンが沖縄を撮りに来た時と同じだと、比嘉豊光は思った。沖縄のものの全てが大和のものになってしまう。政治的にも文化的にも、沖縄は大和に取り込まれていく。しかし、「赤いゴーヤー」までは奪われることはないだろう。わずかな残り物をしっかり見て、守っていかなければならないのではないか。

ならば、こんなブログのような場所で、「赤いゴーヤー」についてヤマトゥンチュの僕が語ってしまうことは、比嘉豊光にとって、許し難き行為なのだろうか。

今月の3日の琉球新報の記事。“撮らされた「時代の傷」”においても、比嘉豊光は語る。
沖縄という場が持つ力を作品化する時、「東京に売るための作品」なのか、「沖縄を取り戻すための作品」なのかが問われることになると。

だが、僕にはこの対立の実体が見えてこないのだ。「売るための作品」と「取り戻すための作品」とを、ことさら対立させることにどんな意味があるのだろう。そこに見えるものは、比嘉豊光の怨念のようなもの。例えば小説家の目取真俊は、「水滴」を発表することによって、沖縄を売ったのか、それとも取り戻したのか。

佐喜眞美術館で比嘉豊光の写真展が開催されていた。その関連シンポジウム“「赤いゴーヤー」からいま・沖縄を視る”に参加した。比嘉豊光と、大和の大御所である写真家、東松照明の対談。
新聞のコラムは、こう書いた。
「『沖縄でも長崎でも写真を撮ることに変わりはない』と語る東松さんに対し、(比嘉豊光さんは)『自分は沖縄の歴史性、場所性を問いながら写真を撮っている。今の東松さんには沖縄が撮れていないと反発。互いの創作姿勢の違いを際だたせていた」

さて、はたしてそうだったのだろうか。実際には、東松照明は次のように語ったと記憶している。
「僕は好きなものを撮っているだけだ。それが今、沖縄と長崎だということだ。」
「好きなものを撮るとは、好きな人にカメラを向けることと同じ。カメラがなければ、好きな人を長く見ていることなどできはしない。しかし、カメラのファインダーを通せば、写真を撮るということを口実にして、いつまでも好きな人を見つめていることが出来る」
確かに、比嘉豊光氏は苛立っていたのかもしれない。沖縄は三十数年前と何も変わっていない。なぜそれを認めて、その現実を切り取って撮ろうとしないのかと。
それは「創作姿勢の違い」などというものではなかった。

4月19日の琉球新報に、東松照明の興味深いインタビュー記事があった。
「作品の選択は年月とともに変わっていく。たとえば三十年前に一人の人物を撮ったとする。アップ、ミディアム、フルショットのコマがあるとき、撮影直後に選んだのはアップ系が多い。最初は、臨場感を重視する。それが十年後にはミディアムショットになり、だんだん引いていく。周りには車があったり、家並みがあったり、引いていくと、情報量が多くなる。その後、全身が写ったフルショットになる」

「際立っていたもの」とは、年齢とともに達観し、物事を俯瞰することが許されている大和の芸術家と、いつまでも生々しい具体の細部に拘らずを得ない苦悩する沖縄の写真家の、互いに逃れがたい「あり方」ではなかったのか。
しかしながら東松照明も、彼の撮影する遠景の中に、きっと赤き比嘉豊光の姿を、はっきりと捉えているに違いない。


5月15日金曜日: ただ5月15日なのである

カテゴリ: 沖縄の、こと
5月15日だから、それにちなんだネタはないかと、昔、自前で作っていた「沖縄ノート」なるものをペラペラとやってみた。だが、なんだか気が進まなくなった。
ブログのネタ探しくらいつまらぬことはない。ましてやそれが沖縄の…、やめた。5月15日と聞いて、すぐ沖縄を思い起こすという「感じ」に、最近の僕はひどく疲れている。

1985年の5月15日の読書ノートに、こんな引用を見つけた。
「青年の思想はおのれの行動の弁解に過ぎぬ」
太宰治である。
ならば壮年の思想は? いや、思想を失った者を壮年と呼ぶのかもしれない。それも悪くはないなどと思い始めている。ただ生きているだけであるということが、どれほどよきことか、などと。

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