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カテゴリ: 《過去のノート》
 「アルメ」ではなさそうか、この僕は?
 (アルメであるとでも言いたげだ)
 ランボーの名訳をいくら読んでも、ランボーは決してやってはこない。
 (カントの名訳なら、カントにお会いできるのでしょうか)
 さて……
 ランボーの、「永遠」と訳された詩が、気に掛かっている。
 (それがどうしたのさ)
 芝居をしたいんだ、普通のさ。
 (できるのか、お前に、そんなものが。)
 今日は変につっかかる。
 (ランボーの仕業。)
 いやだね、とにかくこのホテルのベッドはさ。
 (だって仕事はどうするの)


カテゴリ: 《過去のノート》
「演劇とはショックであり、叫びであり、錯乱であり、道徳的と美学的禁止事項によって抑圧された心理的・肉体的なあらゆる力の解放に他ならなかった」(アルトー「演劇とその形而上学」)

「もはや偉大な戯曲が必要なのではない。劇的な役者の精神が戯曲を呼び起こすのだ」(唐十郎「役者の抬頭」)

脚本から解放された俳優が復権したのだという。

 もしも僕が本当に俳優ならば、それは歓迎すべき事に違いない。だが、最近の流行りの役者の精神とは、そんなものがあればのはなしだが、安易に理性を見下して、肉体の従僕となってしまったみすぼらしい感性の別名なのだ。僕は、断固それを精神などとは認めない。うすっぺらな、言ってみれば性的な演技をする俳優たち、僕には、そんな感性はない。彼らを嫌悪するこの僕は、はたして俳優であるのか。正直に告白すれば、微かな劣等感を覚えてもいるのだが。

 アルトーは理性の破壊と、感性の復活を唱える。古の文明に回帰し、呪術と祝祭の力を取り戻そうとするアルトーの演劇は、文学に寄りかかっている六本木や四谷あたりの既成の演劇に比べれば、確かにはるかに魅力的なのだ。
 にもかかわらず、やはり僕はカミュを想起する。「かつての文明」へ「回帰」せよという演劇人=アルトーにではなく、「新たな文明」を〈誠実な言葉〉によって切り開こうとする文学者=カミュの良心に、僕は心惹かれている。カミュもまた理性の破壊を言うが、アルトーとは違って、カミュは、既成の理性を破壊して、新たな理性を構築せよというのである。

 「飲食より、呼吸の方が、上等な作用である」(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)

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カテゴリ: 《過去のノート》
(カミュ「手帖1」)
 「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
 「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」

 道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
 新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
 だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
 ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。

 物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。

 対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。

 精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。



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