4月26日日曜日: 《1984年5月13日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
強者には、弱者の苦難は絶対に分からない。弱者に強者の苦しみが分からぬように。
誰もが、弱者であったことがある。だが、人は自分が弱者であったことは憶えていても、そのときの苦しさを忘れ去る。誰にも、弱者となる時がある。人は、そのことを知っているくせに、忘れたフリをして生きている。
かつての苦しさの記憶を忘却し、やがて訪れる苦しさに対する創造力を捨てることが、弱者が強者になるための唯一の道なのだ。
弱者は、強者によって殺される。強者になって、弱者を殺し続けながら生きていく苦しさに耐えられない者は、弱者であるより他に生き様はない。
はたして、この絶望的な苦しさを抱えながら、弱者の棲家から強者の領域へ移り住むことは可能なのだろうか。
善悪の問題ではない。孤独に生まれ孤独に死んでゆくそのわずかな隙間に表出する、時間という名の、神には理解不能な概念についての考察である。
誰もが、弱者であったことがある。だが、人は自分が弱者であったことは憶えていても、そのときの苦しさを忘れ去る。誰にも、弱者となる時がある。人は、そのことを知っているくせに、忘れたフリをして生きている。
かつての苦しさの記憶を忘却し、やがて訪れる苦しさに対する創造力を捨てることが、弱者が強者になるための唯一の道なのだ。
弱者は、強者によって殺される。強者になって、弱者を殺し続けながら生きていく苦しさに耐えられない者は、弱者であるより他に生き様はない。
はたして、この絶望的な苦しさを抱えながら、弱者の棲家から強者の領域へ移り住むことは可能なのだろうか。
善悪の問題ではない。孤独に生まれ孤独に死んでゆくそのわずかな隙間に表出する、時間という名の、神には理解不能な概念についての考察である。
4月22日水曜日: 《1984年5月17日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
「筧の話」…
「何という錯誤だろう!私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の欲望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。」
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている。」
安吾はドストエフスキーを「甘い」と言った。
基次郎の声を聞け!
問題は、「甘さ」ではなく、「深さ」である。
断固、反省などしない。
「何という錯誤だろう!私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の欲望を背負っていた。そしてそれらは私がはっきりと見ようとする途端一つに重なって、またもとの退屈な現実に帰ってしまうのだった。」
「課せられているのは永遠の退屈だ。生の幻影は絶望と重なっている。」
安吾はドストエフスキーを「甘い」と言った。
基次郎の声を聞け!
問題は、「甘さ」ではなく、「深さ」である。
断固、反省などしない。
4月19日日曜日: 《23年前の今日のノート(84/4/19)》
カテゴリ: 《過去のノート》
坂口安吾「堕落論」。
「特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。」
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
「他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。」
安吾は、何のために堕ちようとしているのか。既存の幻想を蔑み、新たな幻想の構築のためにか。
阿呆らしい。
今から単純なことを言う。単純なことを言わせるのは安吾の所為だ。
問題は、社会的幻想と個人の幻想の混同。個人の幻想は許そう。だが、自分の信じていたものが所詮幻想でしかないと気づいてしまった個人は、いったいどうするのか。彼らは安吾ではない。安吾の堕落は予定調和だ。自分自身の幻想をあみ出せというのはいい。だが、それが何故武士道やら天皇やらなのか、丹精な和服を着込んで、堕落しようとする安吾に反吐が出る。
自分の信じていたものが所詮幻想でしかないと気づいてしまった個人とは、信じることが幻想以外にはあり得ないということを知ってしまった人間である。彼らは、安吾のように自分を許すことはしない。
しかし、結局個人の問題か。人のことなど知ったことではないということか。ひとりの青年が生活不能者になったとしても、他人は誰も見向きもしない。
不能者は、堕落から復活した安吾たちに喰ってかかる。
「お前の天皇は、幻想に過ぎない」
虚しい遠吠え、社会の迷惑、殴られても文句は言えない。
もう一つ。
人は、「信念=幻想」を持って人を殴る。そういう人間を罰する基準は何なのか。それには、社会的幻想が必要なのである。
そして、僕が罪を犯さないでいる理由。出所のわからない、背後からの視線。たとえそれと同じものを、他人が「倫理」だとか「良心」だとか呼んでいるものだとしても。
「特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。」
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
「他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。」
安吾は、何のために堕ちようとしているのか。既存の幻想を蔑み、新たな幻想の構築のためにか。
阿呆らしい。
今から単純なことを言う。単純なことを言わせるのは安吾の所為だ。
問題は、社会的幻想と個人の幻想の混同。個人の幻想は許そう。だが、自分の信じていたものが所詮幻想でしかないと気づいてしまった個人は、いったいどうするのか。彼らは安吾ではない。安吾の堕落は予定調和だ。自分自身の幻想をあみ出せというのはいい。だが、それが何故武士道やら天皇やらなのか、丹精な和服を着込んで、堕落しようとする安吾に反吐が出る。
自分の信じていたものが所詮幻想でしかないと気づいてしまった個人とは、信じることが幻想以外にはあり得ないということを知ってしまった人間である。彼らは、安吾のように自分を許すことはしない。
しかし、結局個人の問題か。人のことなど知ったことではないということか。ひとりの青年が生活不能者になったとしても、他人は誰も見向きもしない。
不能者は、堕落から復活した安吾たちに喰ってかかる。
「お前の天皇は、幻想に過ぎない」
虚しい遠吠え、社会の迷惑、殴られても文句は言えない。
もう一つ。
人は、「信念=幻想」を持って人を殴る。そういう人間を罰する基準は何なのか。それには、社会的幻想が必要なのである。
そして、僕が罪を犯さないでいる理由。出所のわからない、背後からの視線。たとえそれと同じものを、他人が「倫理」だとか「良心」だとか呼んでいるものだとしても。
4月13日月曜日: 《1984年5月16日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
愛とは、言葉なのか、否か。
神とは、言葉なのか、否か。
生活している男を、信じるのか、否か。
僕は、古きハムレットではなく
太宰の発明した新しきハムレットであるのか、否か。
神とは、言葉なのか、否か。
生活している男を、信じるのか、否か。
僕は、古きハムレットではなく
太宰の発明した新しきハムレットであるのか、否か。
4月11日土曜日: 《1984年7月19日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》