«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 || Next»
カテゴリ: 《過去のノート》
さて、何を書こう…
「陰陽の和する所」。花伝書の一節。
起承転結か、序破急か、単なる作劇法なら面白くもなんともないが、2か3かという比較は、妙に創造力を刺激する。
ただ、それだけのこと。

何を書くのだ、何でもいい…
観客によって舞台が変わる。それはそうだが、観客に変えられたとは思わない。主体はいつもこちら側にある。しかし、どこかの誰かのように、「きっちり提示すること、それしかない」などという気もない。観客によって変わることを僕は100%受け入れる。というより、観客によって変わるという状況は、成功の絶対条件でさえある。ただ、事件の首謀者は、いつだってこちらなのだと言いたいだけだ。
「きっちり提示すること」、一見誠実なようだが、極めて自己中心的なのだ。彼にはダイナミズムが見えていない。うごめく影のような、予想だにしない何かを受け入れることを、彼はきっと恐れている。あえて言えば、「きっちり提示すること」は、自己中心的なコミュニケーションに陥っていく。
だが、これには補足説明が必要だ。「自己中心的ではない」とは、「わかりやすい」ということでは決してない。重要なのは、楽しめるか否かだ。どんなにわかりやすくとも、おもしろくなければ無価値である。小此木啓吾がどこかに書いていた。「自己中心的コミュニケーション」の人間の話は「おもしろくない」。
ならばおもしろければそれでいいのか。わかりやすいがおもしろくないはなしよりはよっぽどましだろう。ということは、わかりやすくておもしろいのが一番いいのか? ところが、そんなもの、ちっともおもしろくないのである。
きっと、ここのことが、彼には根本的に分かっていない。観客が、役者が、人が変わるということの本当の意味を、彼は理解していないのだ。
「本来より、よき、あしきとは、何をもて定むべきや。ただ時によりて、用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす」。用足ることの意味を、馬鹿にしてはいけない。
「花」とは、実に深く、才能のない役者には絶望的な概念である。

興味のないことを書き綴っている…
大江健三郎の「性」、乾ききった自己中心的な妄想。「性」と「政治」、単純な図式。しかし悪文の「おかげ」なのか、こねくりまわされた大江の文章は極めて難解。だが僕は、それを麻薬のように読み続ける。何故か。自らが変わる可能性の萌芽を感じるから。
池田万寿夫の「性」は、なんともつまらない。
根本的な対立の上に成り立つ同化なのか、根本的な同化の上に成り立つ対立なのか、本来「性」とは、同化と対立の混合物なのである。出産が、一つの「死」と一つの「生」の合体であるように。

書くことがない。無理にひねくりだす想念が無価値であることは分かりすぎるほど分かっている…
「ありのままの自分と抵抗なしにあらわれてくる作品などに価値を見出す勇気はない。そういうものは人間の肉体や無意識同様、いとわしく汚ならしいものにちがいない。すくなくとも他者の精神の検討にあたいしない。」

「人間の条件」を読み始めた。
カントが、キリスト教に対して楽観的であったように、マルローもマルキシズムを必然としてその周りを巡るのか、あるいはキルケゴールが絶望的にキリスト教を選び取ったように、マルローはマルキシズムへと収束していくのか。

何も書かずに、今日を終える。(平賀23:00)

なぜ、アイヌのことを書こうとしない!

カテゴリ: 《過去のノート》
2日
延岡。朝六時、まだ暗い。根を下ろした寂しさ。絶望なんてものではなく。
(1985/2/2)

4日
愛し続ける事の出来る人は幸せである。
「心から頭を垂れるよ。心の中で、決して君には気づかれないように。」



カテゴリ: 《過去のノート》
キルケゴールを読んでいると、彼の言葉を援用してそこらに転がっている気に入らぬ事どもをあれこれと色々批判してみたくなる。だがキルケゴールの根本にある「厳格な態度」に従えば、物事を安易に批判することは許されない。
ならばいたって厳密に、芥川の自殺における「ぼんやりとした不安」のキルケゴール的分析だとか、ポーやドストエフスキーの「あまのじゃく」を自由と涜神の関係において述べるなんていうのはどうだろう。いや、やはりそれはそれでキルケゴールの言うところの「真剣さ」を欠いている。

ともかく、「新たな閉鎖性」を生み出すことになるようなキルケゴールの利用の仕方は控えること。
まずは僕自身の思考を、《閉鎖性》というキーワードで批判してみる……。
なんのことはない。僕は結局キルケゴールを使って全く実のない詭弁を弄しているだけ、それこそ「厳格」でもなければちっとも「真剣」でもない……。
どこまでも「閉ざされた」一人よがりの世界。

3月24日火曜日: 《1985年2月6日のノート》

カテゴリ: 《過去のノート》
カイヨワの提示する遊びのカテゴリー。
だが、それらを現実に取り込もうとすると、途端におかしくなる。つまるところ、遊びであったものが遊びでなくなってしまうのだ。遊びを越えた遊び、冷静な狂気、言葉では簡単なのだが、要するに、所詮遊びは遊びであるから遊びなのであって、「遊びのカテゴリー」なるものを利用して遊びの分析などを真面目に始めると、遊びは遊びであることをやめてしまうということらしい。
遊びを越えればそれはもう遊びではない。冷静な狂気とは、どうしたって矛盾だ。カイヨワの真意は、無言の内にそれを警告することだったのではないかなどとも思えてきたが、いやいや、それこそいい加減に過ぎると反省する。
やはり正確さが必要なのである。カイヨワの定義を定立としての厳格な弁証法。その時、遊びはどのようにその名前を変えるのか。


カテゴリ: 《過去のノート》
今日から秋田に入った。

「義務」という意識を、強迫的に持つことによって、辛うじて行為を選び取っている……、そんな印象を、目の前に放り出すように書いてみると、なんとも中身が抜けてしまって、不誠実だという気がする。おかしなことだ。誰に読ませるつもりもないのに、自己完結した行為なのに、何に対して不誠実だと感じるのか。だいたいが書かねばならぬなどと思うこと自体がおかしいのだ。
「強迫的」などと、心理を分析するようなことをするから、空っぽになってしまうのだ。心理学的分析を一切回避して、ひたすら論理的に考えるべき事柄がある。問題は、どうやって論理をエゴイズムから解放させるかである。まずはできるだけ大きな全体を準備して俯瞰する。そして今語ろうとしている論理にアクセントがあるかどうかを確認することだ。論理的に考えるべきテーマであると主張するだけのアクセントがあるかどうか、それ以上に強いアクセントを持った課題が、俯瞰した全体の中に存在しないかどうかを確認することが重要なのだ。

アイヌのことは明日。

«Prev || 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 || Next»