(カミュ「手帖1」)
 「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
 「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」

 道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
 新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
 だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
 ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。

 物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。

 対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。

 精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。