08/05/23 : 《写しはじめたノート》1983年7月1日
カテゴリ: 《過去のノート》
(カミュ「手帖1」)
「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」
道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。
物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。
対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。
精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。
「思考はたえず先へ先へと進んでゆく。それは非常に遠い先まで見越してしまう。現在にとどまっている肉体よりずっと先をだ。希望を圧し殺すということは、思考を肉体に戻してしまうことだ。そして肉体は腐敗するにちがいない。」
「《ぼくは知性なんか軽蔑する》ということは、実際には《ぼくは自分の懐疑に耐えることができない》ということを意味している。ぼくは目を、しっかりと見ひらいていたいのだ。」
(小林秀雄「ペスト」)
「不条理とは、空想か忘却によってしか出口のない現実の状態であり、正しく考えるとは、この状態に密着して考える事であり、この状態を勝手に限定したり、この状態から抽象を行ったりして、真理という数多の水死人を拾い上げる事ではない。こういう意識は、当然危険な意識であるが、一方、それは明織の限界として現れる筈だから、そのまま積極的な生活信条ともなり得るのである」
道徳的な戒律は破壊された。神格化された真理は、もはや、ない。「理性」は否定され、そして「肉体」が復権した。「性欲」が「論理的思考」を凌駕する。
新たなモラルの確立のためには、カミュの言うように、性欲は「理性的」なものによって再び飼いならされねばならないのか。例えばフロイトは、性欲を無意識の闇から引きずり出して、それを理性の名において征服しようとした。フロイトはモラリストから逸脱してはいなかった。理性は「理性」であった。
だが現代の理性は、もう「理性」ではない。
ニーチェだったろうか。神は徐々に殺されたといったのは。
物質から精神が生まれる〈不条理〉……理解不能。
対峙する肉体(身体)と精神(理性)の〈不条理〉を、目をそらさずに、誠実に見つめ続けること、できることはそれしかない。だが、その対立を、遠く俯瞰しているわけではない。精神の側から向こう岸を眺めることしかできないのだ。その事を忘れて、理性がしたり顔に語り始めると、矛盾の沼にはまり誤謬を犯す。「理性的」とは、誤謬を犯す危険を持つということだ。不幸な理性である。
精神か、肉体か、永遠なる二元論。だが僕はやがて死ぬだろう。
(1983/7/1)
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