「演劇とはショックであり、叫びであり、錯乱であり、道徳的と美学的禁止事項によって抑圧された心理的・肉体的なあらゆる力の解放に他ならなかった」(アルトー「演劇とその形而上学」)

「もはや偉大な戯曲が必要なのではない。劇的な役者の精神が戯曲を呼び起こすのだ」(唐十郎「役者の抬頭」)

脚本から解放された俳優が復権したのだという。

 もしも僕が本当に俳優ならば、それは歓迎すべき事に違いない。だが、最近の流行りの役者の精神とは、そんなものがあればのはなしだが、安易に理性を見下して、肉体の従僕となってしまったみすぼらしい感性の別名なのだ。僕は、断固それを精神などとは認めない。うすっぺらな、言ってみれば性的な演技をする俳優たち、僕には、そんな感性はない。彼らを嫌悪するこの僕は、はたして俳優であるのか。正直に告白すれば、微かな劣等感を覚えてもいるのだが。

 アルトーは理性の破壊と、感性の復活を唱える。古の文明に回帰し、呪術と祝祭の力を取り戻そうとするアルトーの演劇は、文学に寄りかかっている六本木や四谷あたりの既成の演劇に比べれば、確かにはるかに魅力的なのだ。
 にもかかわらず、やはり僕はカミュを想起する。「かつての文明」へ「回帰」せよという演劇人=アルトーにではなく、「新たな文明」を〈誠実な言葉〉によって切り開こうとする文学者=カミュの良心に、僕は心惹かれている。カミュもまた理性の破壊を言うが、アルトーとは違って、カミュは、既成の理性を破壊して、新たな理性を構築せよというのである。

 「飲食より、呼吸の方が、上等な作用である」(森鴎外「ヰタ・セクスアリス」)




「演劇とその形而上学」という題名は誤訳だというはなしは、当時よく議論していた。「演劇とその二重性」というのが正しい、などと。「演劇とその分身」か、なるほどねえ。ずいぶんと印象が違うものだ。