08/07/31 : 《1984年4月15日のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
シーシュポスは、いつ果てるともない作業を繰り返す。目的のない絶望的な行為、それと比べてしまえば、「恩讐の彼方に」の市九郎のやる仕事など、さほどでもなく思えてくる。中途半端という物足りなさ。戯曲の「恩讐の彼方に」では感じなかったことを、小説の形式で読んだらそう感じたのは何故なのか。
言葉が全く存在しなくても、舞台は成立するのかもしれない。しかし小説は、言葉を並べること以外に方法を持たない。沈黙を表現したい時、俳優は言葉を放棄して黙っていることも出来るが、小説家には無言は許されない。とりあえず、「沈黙」、と言葉を書き落としてみる。すると途端に沈黙は破られてしまう。厳密を欲する小説家が失われた沈黙を取り戻す為には、言葉を洪水のように垂れ流すより他に、もはや手段を持たない。沈黙は言葉の喧騒によってしか表現しえないものとなる。しかし、完全なる沈黙を手にいれることは、永遠に不可能なのだ。
だとすれば、例えば「シーシュポスの神話」を、小説の過剰な言葉によって想起させられるということを、どう理解すればいいのだろう。敢えていうならば、「不条理」などという概念によって「発見させられてしまった」状況とは、実は幻想であって、本来の人間の生活とは全く没交渉の空虚な概念ではないのか。しかし、これも所詮言葉の遊びである。
言葉の合理性は、ややもすると、その時の正確な思いや感じ方を無視して勝手に離れていく。
それを引き戻すのに、やっきである。
それと同じことなのかどうか分からないのだが、坂口安吾の文体の姿が、その内容と、ちっともそぐわない。坂口安吾の文体はあまりにも整いすぎていて乱れない。揺れない。それが「俗悪なるものの極点」なら、あまりにもつまらない。彼は堕ちたのではなく、昇天したのではないかと疑う。仮に行き着くところが同じなのだとしても、安吾は、俗悪なるものにまみれていない。それが、文体に出る。
だが、実の気持ちが極点で揺れていると、きっと文章など書けない。もしかすると、実の気持ちが極点で揺れているから、揺れぬ言葉しか書けないのかもしれない。揺れぬ言葉だけが、実の揺れている自分を救う唯一の手段なのかもしれない。しかし、であるとするなら、小説の言葉は真実を伝えないし、自分を真に救ってくれることもない。
宗教によって救われることを「よし」とするなら、宗教による救済が真の救済だというなら、それはまた別のはなしだが。
言葉が全く存在しなくても、舞台は成立するのかもしれない。しかし小説は、言葉を並べること以外に方法を持たない。沈黙を表現したい時、俳優は言葉を放棄して黙っていることも出来るが、小説家には無言は許されない。とりあえず、「沈黙」、と言葉を書き落としてみる。すると途端に沈黙は破られてしまう。厳密を欲する小説家が失われた沈黙を取り戻す為には、言葉を洪水のように垂れ流すより他に、もはや手段を持たない。沈黙は言葉の喧騒によってしか表現しえないものとなる。しかし、完全なる沈黙を手にいれることは、永遠に不可能なのだ。
だとすれば、例えば「シーシュポスの神話」を、小説の過剰な言葉によって想起させられるということを、どう理解すればいいのだろう。敢えていうならば、「不条理」などという概念によって「発見させられてしまった」状況とは、実は幻想であって、本来の人間の生活とは全く没交渉の空虚な概念ではないのか。しかし、これも所詮言葉の遊びである。
言葉の合理性は、ややもすると、その時の正確な思いや感じ方を無視して勝手に離れていく。
それを引き戻すのに、やっきである。
それと同じことなのかどうか分からないのだが、坂口安吾の文体の姿が、その内容と、ちっともそぐわない。坂口安吾の文体はあまりにも整いすぎていて乱れない。揺れない。それが「俗悪なるものの極点」なら、あまりにもつまらない。彼は堕ちたのではなく、昇天したのではないかと疑う。仮に行き着くところが同じなのだとしても、安吾は、俗悪なるものにまみれていない。それが、文体に出る。
だが、実の気持ちが極点で揺れていると、きっと文章など書けない。もしかすると、実の気持ちが極点で揺れているから、揺れぬ言葉しか書けないのかもしれない。揺れぬ言葉だけが、実の揺れている自分を救う唯一の手段なのかもしれない。しかし、であるとするなら、小説の言葉は真実を伝えないし、自分を真に救ってくれることもない。
宗教によって救われることを「よし」とするなら、宗教による救済が真の救済だというなら、それはまた別のはなしだが。