08/12/19 : 《1985年8月28日の旅のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
昨夜、滝川で大酒に溺れ、今日、紋別へ移動。体調、すこぶる悪し。自業自得。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、第一次世界大戦中の刊行。その所為なのか、自由を切実に求めるが故に、「自由の存在」について、彼は疑うことをしない。
しかし。
死ぬ自由はあっても、生まれてしまった限り、生きた事実から自由になることは出来ない。厳密には、真の自由の実現は不可能事なのであろう。
でも、だからといって、自由は形而上学の俎上で分析されるべきだなどと言いたい訳ではない。そんなことになれば、自由の存在はたちまち危うくなり、議論はそこから一歩も先へ進めないということにもなりかねない。今この時に、命を賭しても手に入れたいと思う現実的自由は、そこにはない。
フロムの扱う自由が、形而下に留まる限りはそれでよい。世俗的には、様々な自由が、到る所に転がっている。しかし、フロムの自由は、多分に理念なのである。にもかかわらず、その存在を信じて疑わない彼の、無反省で楽観的な論調が不満である。
実現できないものを理念に据えてはならぬという法はない。むしろ、実現出来ぬからこそ理念になり得るのだ。実現不可能な希望を理念に据える確信は、実現不可能であるという分析の上になされてはじめて力を持つのではないか。
もしかすると、自由から逃避しようとする者の方が、自由の不可能性という本質を、無意識に捉えているのかもしれない。蹲り怯えるそうした弱き者たちを立ち上がらせて、再び自由へと向かわせるためには、どのような自由が不可能であり、どの自由なら手に入れることができるのかを、はっきりと指し示すことが必要なのである。その時になって初めて、不可能な形而上の自由ですら、理念となりうるということを、彼らに受け入れてもらえるに違いない。
だが……。
しかしそれは、明日にしよう。体調が僕を規定する。ことここにおいて、僕に全く自由はない。詰まらぬ論理の原因が体調の悪さなどというのは、勘弁である。
エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、第一次世界大戦中の刊行。その所為なのか、自由を切実に求めるが故に、「自由の存在」について、彼は疑うことをしない。
しかし。
死ぬ自由はあっても、生まれてしまった限り、生きた事実から自由になることは出来ない。厳密には、真の自由の実現は不可能事なのであろう。
でも、だからといって、自由は形而上学の俎上で分析されるべきだなどと言いたい訳ではない。そんなことになれば、自由の存在はたちまち危うくなり、議論はそこから一歩も先へ進めないということにもなりかねない。今この時に、命を賭しても手に入れたいと思う現実的自由は、そこにはない。
フロムの扱う自由が、形而下に留まる限りはそれでよい。世俗的には、様々な自由が、到る所に転がっている。しかし、フロムの自由は、多分に理念なのである。にもかかわらず、その存在を信じて疑わない彼の、無反省で楽観的な論調が不満である。
実現できないものを理念に据えてはならぬという法はない。むしろ、実現出来ぬからこそ理念になり得るのだ。実現不可能な希望を理念に据える確信は、実現不可能であるという分析の上になされてはじめて力を持つのではないか。
もしかすると、自由から逃避しようとする者の方が、自由の不可能性という本質を、無意識に捉えているのかもしれない。蹲り怯えるそうした弱き者たちを立ち上がらせて、再び自由へと向かわせるためには、どのような自由が不可能であり、どの自由なら手に入れることができるのかを、はっきりと指し示すことが必要なのである。その時になって初めて、不可能な形而上の自由ですら、理念となりうるということを、彼らに受け入れてもらえるに違いない。
だが……。
しかしそれは、明日にしよう。体調が僕を規定する。ことここにおいて、僕に全く自由はない。詰まらぬ論理の原因が体調の悪さなどというのは、勘弁である。