09/04/30 : 《1985年9月18日の旅のノート》
カテゴリ: 《過去のノート》
さて、何を書こう…
「陰陽の和する所」。花伝書の一節。
起承転結か、序破急か、単なる作劇法なら面白くもなんともないが、2か3かという比較は、妙に創造力を刺激する。
ただ、それだけのこと。
何を書くのだ、何でもいい…
観客によって舞台が変わる。それはそうだが、観客に変えられたとは思わない。主体はいつもこちら側にある。しかし、どこかの誰かのように、「きっちり提示すること、それしかない」などという気もない。観客によって変わることを僕は100%受け入れる。というより、観客によって変わるという状況は、成功の絶対条件でさえある。ただ、事件の首謀者は、いつだってこちらなのだと言いたいだけだ。
「きっちり提示すること」、一見誠実なようだが、極めて自己中心的なのだ。彼にはダイナミズムが見えていない。うごめく影のような、予想だにしない何かを受け入れることを、彼はきっと恐れている。あえて言えば、「きっちり提示すること」は、自己中心的なコミュニケーションに陥っていく。
だが、これには補足説明が必要だ。「自己中心的ではない」とは、「わかりやすい」ということでは決してない。重要なのは、楽しめるか否かだ。どんなにわかりやすくとも、おもしろくなければ無価値である。小此木啓吾がどこかに書いていた。「自己中心的コミュニケーション」の人間の話は「おもしろくない」。
ならばおもしろければそれでいいのか。わかりやすいがおもしろくないはなしよりはよっぽどましだろう。ということは、わかりやすくておもしろいのが一番いいのか? ところが、そんなもの、ちっともおもしろくないのである。
きっと、ここのことが、彼には根本的に分かっていない。観客が、役者が、人が変わるということの本当の意味を、彼は理解していないのだ。
「本来より、よき、あしきとは、何をもて定むべきや。ただ時によりて、用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす」。用足ることの意味を、馬鹿にしてはいけない。
「花」とは、実に深く、才能のない役者には絶望的な概念である。
興味のないことを書き綴っている…
大江健三郎の「性」、乾ききった自己中心的な妄想。「性」と「政治」、単純な図式。しかし悪文の「おかげ」なのか、こねくりまわされた大江の文章は極めて難解。だが僕は、それを麻薬のように読み続ける。何故か。自らが変わる可能性の萌芽を感じるから。
池田万寿夫の「性」は、なんともつまらない。
根本的な対立の上に成り立つ同化なのか、根本的な同化の上に成り立つ対立なのか、本来「性」とは、同化と対立の混合物なのである。出産が、一つの「死」と一つの「生」の合体であるように。
書くことがない。無理にひねくりだす想念が無価値であることは分かりすぎるほど分かっている…
「ありのままの自分と抵抗なしにあらわれてくる作品などに価値を見出す勇気はない。そういうものは人間の肉体や無意識同様、いとわしく汚ならしいものにちがいない。すくなくとも他者の精神の検討にあたいしない。」
「人間の条件」を読み始めた。
カントが、キリスト教に対して楽観的であったように、マルローもマルキシズムを必然としてその周りを巡るのか、あるいはキルケゴールが絶望的にキリスト教を選び取ったように、マルローはマルキシズムへと収束していくのか。
何も書かずに、今日を終える。(平賀23:00)
なぜ、アイヌのことを書こうとしない!
「陰陽の和する所」。花伝書の一節。
起承転結か、序破急か、単なる作劇法なら面白くもなんともないが、2か3かという比較は、妙に創造力を刺激する。
ただ、それだけのこと。
何を書くのだ、何でもいい…
観客によって舞台が変わる。それはそうだが、観客に変えられたとは思わない。主体はいつもこちら側にある。しかし、どこかの誰かのように、「きっちり提示すること、それしかない」などという気もない。観客によって変わることを僕は100%受け入れる。というより、観客によって変わるという状況は、成功の絶対条件でさえある。ただ、事件の首謀者は、いつだってこちらなのだと言いたいだけだ。
「きっちり提示すること」、一見誠実なようだが、極めて自己中心的なのだ。彼にはダイナミズムが見えていない。うごめく影のような、予想だにしない何かを受け入れることを、彼はきっと恐れている。あえて言えば、「きっちり提示すること」は、自己中心的なコミュニケーションに陥っていく。
だが、これには補足説明が必要だ。「自己中心的ではない」とは、「わかりやすい」ということでは決してない。重要なのは、楽しめるか否かだ。どんなにわかりやすくとも、おもしろくなければ無価値である。小此木啓吾がどこかに書いていた。「自己中心的コミュニケーション」の人間の話は「おもしろくない」。
ならばおもしろければそれでいいのか。わかりやすいがおもしろくないはなしよりはよっぽどましだろう。ということは、わかりやすくておもしろいのが一番いいのか? ところが、そんなもの、ちっともおもしろくないのである。
きっと、ここのことが、彼には根本的に分かっていない。観客が、役者が、人が変わるということの本当の意味を、彼は理解していないのだ。
「本来より、よき、あしきとは、何をもて定むべきや。ただ時によりて、用足る物をばよき物とし、用足らぬをあしき物とす」。用足ることの意味を、馬鹿にしてはいけない。
「花」とは、実に深く、才能のない役者には絶望的な概念である。
興味のないことを書き綴っている…
大江健三郎の「性」、乾ききった自己中心的な妄想。「性」と「政治」、単純な図式。しかし悪文の「おかげ」なのか、こねくりまわされた大江の文章は極めて難解。だが僕は、それを麻薬のように読み続ける。何故か。自らが変わる可能性の萌芽を感じるから。
池田万寿夫の「性」は、なんともつまらない。
根本的な対立の上に成り立つ同化なのか、根本的な同化の上に成り立つ対立なのか、本来「性」とは、同化と対立の混合物なのである。出産が、一つの「死」と一つの「生」の合体であるように。
書くことがない。無理にひねくりだす想念が無価値であることは分かりすぎるほど分かっている…
「ありのままの自分と抵抗なしにあらわれてくる作品などに価値を見出す勇気はない。そういうものは人間の肉体や無意識同様、いとわしく汚ならしいものにちがいない。すくなくとも他者の精神の検討にあたいしない。」
「人間の条件」を読み始めた。
カントが、キリスト教に対して楽観的であったように、マルローもマルキシズムを必然としてその周りを巡るのか、あるいはキルケゴールが絶望的にキリスト教を選び取ったように、マルローはマルキシズムへと収束していくのか。
何も書かずに、今日を終える。(平賀23:00)
なぜ、アイヌのことを書こうとしない!