まず、アイヌについて語り、それから沖縄へという魂胆なのに、ちっとも先に進めず、ただ過去の屍を埋め草にしてばかりいる。

世の中は、あっちもこっちも不景気極まっている。しかし、どんなに苦しくても、今のこの時に仕掛けなければ、ただ消え行くのみであると確信しているから、昼間はひたすら奔走している。

だが、別の思いがある。

自宅の書斎に戻ると、(といっても、なかなかそんな時間も無いのだし、次の日の仕事を考えれば、とっとと眠るべきなのだろうが)昔読んだ本や、買ったはいいが読む時間が無くて読み切れていない本などを引っ張り出してきて、あっちこっちとつまみ読みを始める。いつしかつまみ読みのつもりが読みふけり、白み出した空に慌てて布団に潜り込む。しかしもう眠れやしない。浅く短い睡眠だけで、仕事に出かけるはめになる。

ずいぶんと前に片を付けていたはずの事どもなのだが、それが気になりだした。自信がなくなったわけではない。ただ、きちんと論理的な言説をもって自らの立場を披瀝することができるだろうか、そのあたりを、もう一度確認しておきたいと思ったのである。かつて読んだ本だが、再読すれば新しい発見もある。今日生まれた言葉は、なんとしても今日のうちに書き残しておきたいという衝動に駆られる。ただ、そのような即時的な言葉を、そのままここに垂れ流すことは許されない。もはやかつての僕ではない。たくさんの方に助けられて仕事をしているのだから、迷惑を掛けるわけには断じていかないのだ。しかし、それでもやはりどうしても語りたいことがある。だから、なんともやっかいなのである。

大城立裕氏よりも前の沖縄の小説を、あれこれ読んでいる。ひたすら結論を求めて急いでいたあの頃に比べて、今の僕は、ずっとゆっくりと、それらの小説の世界に浸っていられる。与えられた現実的な時間は、はるかに少ないのだが。

「沖縄問題をあくまでも『文化問題』として捉えようとする姿勢が、沖縄問題をイデオロギー的に捉えることを警戒して『政治』と『文化』を二文法的に切り離した」
「その姿勢が彼(大城立裕)の文学に多くの価値をもたらした」
「しかしコロニアルな状況のもとでは、『政治』と『文化』を切り離す二文法的なとらえかたが、『文化』の持つ政治性について無警戒に陥る場合の多いことは」「指摘されてきたことである」
(岡本恵徳「占領下の沖縄と大城文学」(『大城立裕文学アルバム』)

しかし、文化の政治性についての無警戒をいうなら、即自的な沖縄の芸能者にこそ当てはまるとは言えないか。
「コロニアルな状況」を突き詰めていけば、新川明の「反復帰論」のように、結局、国家と個人の問題とならざるを得ないのではないか。
そして、一般名詞となった「国家」と「個人」は、色を失う。それをマイノリティーの芸能で補おうとしても、それは論理的な矛盾ではないのか。

沖縄を「さまよえるユダヤ人」になぞらえようとする者の声を聞く時、僕は、僕の家族を思い浮かべ、彼らの人生が安心に満たされ穏やであることを心から願っている自分を見つけて、そして呆然と自己嫌悪するのである。

僕にとってアナーキストとは、いまだに限りない憧憬の対象でありながら、また限りなく嫌悪する何者かなのである。