ニーチェを読んで、一夜明けると、僕はニーチェ主義者になっていた。

健康は価値あるものだとニーチェが言う。至極当たり前のようだが、ニーチェが言うとその趣は一転する。健康は不健康を差別する。それが〈自然〉だとニーチェが言えば、健康において劣る者は差別されて当たり前のように聞こえる。知里真志保は〈自然〉の民たる〈アイヌ〉の健康健全だった事を言うが、ならばどうして〈アイヌ〉は和人に差別され追いやられたのか。デズモンド・モリスは面白いが、敗れ弱った民族を正当な人類の進歩から外れたものとして顧みない。

結局〈自然に帰れ〉式の甘ったれた〈自然〉は、ニーチェが笑うような奴隷根性を本能とする畜群の都合のよい偏狭な概念なのであって、本当の〈自然〉はそれとは全く別の相貌を持っているという事なのか。
だからといって、和人の〈自然観〉の方が〈アイヌ〉のそれより正しいと言うのではない。屯田開拓を記念する碑、その背後に隠された〈アイヌ〉の歴史。開拓者が闘おうとした〈自然〉、〈アイヌ〉が共に生きようとした〈自然〉、しかし〈真の自然〉は、そのどちらからも遠く隔たっているのかもしれない。

〈自然〉を制して勝ち誇っているような屯田の歴史も、いつか強烈に覆されるのか。だとしても〈自然〉から反撃されてそうなるのではない。だいたい〈人間対自然〉などあり得ない。人間がこうしている事、それもまた〈自然〉なのだ。巨大な〈自然〉の測り知れぬ営みの中の一部なのだ。いつか人間はそれに気づかされる時が来る。楽観的たろうとする意志に反して気づかざるを得なくなる。

同じように、〈自然〉に帰るというのも無理な話なのだ。人間が〈自然〉以外であるはずなどないのだから。だが祈る事は出来る。というより、祈る事しか出来ないのだ。その意味で〈アイヌ〉の〈自然観〉は屯田のそれよりもはるかに〈真の自然〉を捉えているという事か。〈アイヌ〉の〈自然〉に対する祈りも、今や昔のままではないとしても……。そして、ああ、そしてやはりこれなのだが、僕は無関係なこの頭痛に悩まされる。祈ってこの頭痛が止むのなら、いくらでも祈ってやる。

またニーチェが笑う。超人は何に対しても決して祈る事をしない者なのだと。